教会へ行こう! 〜日曜礼拝はこのように行われています〜 本文へジャンプ

 いこいを求めて

 人は必ずのどが渇きます。一杯の冷たい飲み物が、どんなにありがたいことでしょうか。
 わたしたちの人生の旅路にも、オアシスが必要です。渇いた心をいやし、命に満たす、澄み切った水が豊かにあふれるオアシス――それが教会です。教会は、あなたの心のオアシスです。
 神様は、人間が一週間に一度、必ずこのオアシスに来て、新鮮な水を飲み、新しい命に満たされるようにと、礼拝をお定めになりました。旅人がオアシスで憩うように、わたしたちはここで真の心の憩いを与えられ、新しい命に満たされるのです。

 ◇心に疲れをおぼえるとき…

 他人にはわかってもらえないと感じているとき、また、他人から中傷され、非難されるとき、そしてまた、人生、仕事、家庭、対人関係に疲れをおぼえ、無気力になり、投げやりな気持ちにさえなりがちなとき。
 そんなあなたをオアシスに招く方があります。
 「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ福音書11:28)
 わたしたちの心の底まで理解し、慰め、支えて下さる方――それがイエス・キリストです。
 なぜなら、イエス・キリストは、神ご自身であられたのに、わたしたちのすべての苦しみ、悩み、痛みを味わい知るために、人間性をとってこの地上に下られたからです。
 「キリストは、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。」(ヘプル人への手紙1:15〜16)

 ◇自分のみにくさを嘆くとき…

 わたしたちは、自分の願いに反して、他人を中傷したり、ねたんだり、うらんだりしてしまいます。そして、大切な友をさえ、失ってしまうのではないかと恐れます。
 そのようなわたしたちの真相を、聖書は明確に指摘しています。
 「わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。……そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。」(ローマ人への手水7:15、17)
 この、すべてのみにくい罪の本質を「原罪」と言います。だれも、自分の力で、この原罪に浸透され支配されている自分の心を変えることはできません。
 しかし、神に感謝しましょう。キリストはわたしたちの原罪をご自分の身に引き受けて下さり、十字架の上に身代わりの犠牲となって下さいました。わたしたちの罪はキリストに負わされ、代わりにキリストの命、神の命がわたしたちに与えられたのです。
 「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」(コリント人への第二の手紙5:17)
 「キリスト・イエスにあるいのちの御霊(みたま)の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。」(ローマ人への手紙8:2)

 ◇人生の意味を求めているとき…

 わたしたちは充実した生き方を求めています。しかし、真の人生の目的とは何かがわかりません。お金がすべてではないし、地位、名誉があればよいというわけでもありません。
 わたしたちの心は、神以外のものでは、真の満足を得ることができないのです。神様が、わたしたちをそのようにお造りになつたからです。
 聖書ははっきりと教えています。「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。」(ルカ福音書10:42)
 「イエスは立って、叫んで言われた、『だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水(神の命、聖霊)が川となって流れ出る。』」(ヨハネ福音書7:37〜38)

 ◇病気や死が怖いとき…

 死は人間の最後の、最大の敵です。涙も悲しみも、死という最大の問題から起こってきます。
 しかし、ただひとり、死に勝利を取ったかた、それがイエス・キリストです。
 十字架の上に、わたしたちのすべての罪を背負い、死なれたイエスは、三日目に復活されました。それは、イエスが復活であり永遠の命である方、神ご自身であることの証明でした。
 このイエス・キリストを自分自身の命として、心の内に迎えるとき、わたしたちは死に対して完全な勝利を得ることができます。永遠の命に生きる者と変えられます。
 これこそ、聖書が示している救いの核心です。
 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか。」(コリント人への第一の手紙15:55)
 「イエスは……言われた、『わたし
はよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。』」(ヨハネ福音書11:25〜26)

 あなたもぜひ、この心のオアシス――礼拝においでください。そして、喜びにあふれた、新しい一歩を踏み出されますよう、心からお祈りいたします。


 では、実際に教会の中へ、一歩入ってみましょう。日曜日、礼拝はどのように行われているのでしょうか。



 〜日曜礼拝はこのように行われています〜

 行ってみたい礼拝

 私の住んでいる町には、つい最近までキリスト教会は一つもありませんでした。にもかかわらず、「幼いころ、日曜学校に行ったことがある。」「ミッシヨン・スクールで学んだ。」「教会で結婚式を挙げた」という人々に結構出会うのです。
 その方々は、懐かしそうに、「教会ができたらぜひ行ってみたい」と異口同音におっしゃいます。
 これらの方にとっては、教会は何か懐かしい、心の郷愁を憶えさせるところであり、そうでない方にとっても、一度行って見たいと思うところなのです。
 Aさんも、そのような方々の中の一人でした。ある日曜日の朝、心引かれて教会に来られたのですが、入口で躊躇してしまい、結局中に入らず帰ってしまわれました。あとでそのことを伺い、私はとても残念に思いました。そのわけを伺いますと、「教会の中でどんをことをしておられるのかよくわからをいので、突然入っていって無作法なことをしては迷惑だろうと思い遠慮しました」ということでした。
 教会の礼拝に参加するために、特別を作法というものは何も必要ではありませんが、初めての方にとっては、お茶の作法を知らず、お茶席に入るようを緊張を覚えられるのも無理からぬことでしょう。これは、教会側の配慮や工夫が足りないところであって、大いに反省し、改善しなければならないところだと思わされました。

 それで、私はAさんへのお詫びの気持ちも込めて、教会へ一度行ってみたいと思っておられる方々のために、「教会ではこのようを集会をしています」ということを、前もってお知らせしておきたいと思って、この記事を書いています。

 
礼拝堂に入る

 ほとんどの教会では、日曜日の朝十時半から礼拝が行われています。
特に、聖イエス会の教会では、月に一回を「バイブル・サンデー」として、初心者のための特別なプログラムで礼拝が行われていますので、初めての方はその集会から出席されることをおすすめします。(注・教会によっては、礼拝の時間や、バイブル・サンデーの日が異なる場合もありますので、お問い合わせください。)
 まず玄関を入りますと、ホールに受付があり、係の人が迎え、プログラムを手渡してくれます。聖書や讃美歌をお持ちでなければ、そこで借りることができます。そして、礼拝堂へと進みます。
 座席はどこに座っても構いませんが、できるだけ前のほうの空席から詰めて座り、静かに祈りの心で開会を待ちましょう。
 鐘が鳴り終わると、いよいよ礼拝の始まりです。礼拝の順序は、教会によって少し異なりますが、聖イエス会の教会では、おおよそ次のようを順序で進められます。

礼拝順序(プログラム)

1 オルガン前奏と聖歌隊入場


 聖歌隊が祭壇に向かって進みます。あなたも心において神に近づいてください。

2 オープニング(開会)賛美

 聖歌隊が開会の讃美歌を歌います。

3 会衆賛美

 会衆一同で、神を讃える讃美歌を歌います。あをたもご一緒にどうぞ。

4 主の祈り

 「私たちに祈ることを教えて下さい」との弟子達の願いにこたえて、キリストが教えられた有名な祈りです。
 「天にましますわれらの父よ、願わくは御名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもをさせたまえ。われらの日用(にちよう)のかてを今日(きょう)も与えたまえ。われらに罪を犯すものをわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ。われらを試みにあわせず、悪より救いいだしたまえ。国と力と栄えとは、限りなくなんじのものなればなり。 アーメン」

5 使徒信条(クレド)

 キリスト教会の最も古い、伝統的を信仰告白で、キリスト教信仰の核心とも言うべきものです。
 「われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ボンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬(ほうむ)られ、よみにくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを裁(さば)きたまわん。われは聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。 アーメン」
(主の祈り・使徒信条は讃美歌の表紙の裏面に記されています。)

6 聖書交読

 司会者、または信徒の代表者によってリードされる聖書の朗読で、司会者と会衆が一節づつ交互に読むので、交読と言われます。『聖イエス会讃美歌』の、214番から251番までの交読文が多く用いられます。

7 会衆賛美


8 聖書朗読


 その日のメッセージのための聖書の言葉が、司会者によって読まれます。(聖書を開くのは、慣れるまでに少し時間がかかりますが、司会者が旧約聖書の何ページ、新約聖書の何ページとアナウンスしますのでそのページをお開き下さい。聖書の前の三分の二(一ページから一三二六ページまで)が旧約聖書で、後の三分の二ページが改まって、一ページから四〇九ページまで)が新約聖書になっています。)

9 祈 り

 この祈りは、祈祷文による祈りではなく、数名の人が自由に祈ります。神がこの礼拝の中に現存をあらわし、われわれの礼拝を受け入れ、われわれに語って下さるようにと祈ります。さらに、エルサレムの平和、イスラエルの救いを祈ります。それは神が、「エルサレムの平和を祈れ」と命じておられるからであり、エルサレムの平和と、イスラエルの救いが完成するときに、人類の救いと世界の恒久的平和が実現すると、聖書に預言されているからです。
 祈りの中で、「我は主なり」また「神は愛なり」など、神の御名(みな)が唱えられます。

10 聖歌隊賛美

 その日の礼拝にふさわしい賛美がささげられます。(バイブル・サンデーでは、もっと多くの讃美歌が歌われ、信仰の体験談が語られます。)

11 説教(メッセージ)

 説教はプロテスタント(新教)教会の礼拝の中心です。説教は牧師個人の思想や神学ではなく、神の御言葉そのものが語られ、解説されます。聖イエス会の聖職者は、例外なしに、神との出会いの体験をもち、キリスト御自身を心の内に持っていますので、キリストの代弁者として語ります。
 そして、いよいよ礼拝の頂点である神との出会いの時が近づいてきます。はじめは、キリストを持った説教者が語っていますが、やがて、説教者の内からキリストご自身が、「我は主なり」、「神は愛なり」と御自身の御名を啓示し、力強く働いてくださいます。そのとき、会衆も心を合わせて御名を唱和いたします。
 「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」(ローマ人への手紙10:13)と聖書にある通り、このとき、心からキリストを自分の神・救い主と信じて御名を呼ぶ
人はみごとに神と出会い、生まれ変わり、新しい人となってゆくのです。
 はじめて教会に来られる方の多くは、教会はシーンと静まりかえっていて、厳かに儀式が行われているところ、というイメージをもっておられますが、聖書の中の教会はそうではありません。
 初代教会では、神が教会の中に生き生きと現存し、働いておられましたので、人々も力強く賛美し、祈り、御名を唱えました。それで、クリスチャンは「御名を唱える人たち」と呼ばれていました。そして、集会ごとに、救われる人、病が癒(いや)される人が起こったと「使徒行伝」に記されています。はじめは、少し戸惑いが
あるかもしれませんが、あなたも、回りの人を意識せず、純粋を心で神の御名をお唱えください。

12 会衆賛美と献金

 讃美歌を歌っている間に献金をいたしますが、献金は信徒が神の恵みに感じて自由にする礼拝の一部分ですから、新しい方も全く自由です。袋をそのまま隣の人に回していただいて結構です。

13 献金の感謝の祈り、または讃詠(さんえい)

 信徒役員が祈りをささげます。代わりに、一同起立して次の讃詠を歌う場合もあります。
 「いまささぐる供え物を、主よ、清めて受けたまえ。アーメン」

14 頌栄(しょうえい)・祝祷(しゅくとう)

 礼拝をすべくくる神への讃歌と牧師による祝福の祈りがささげられます。
 「父、み子、みたまの、おおみ神に、ときわに絶えせず、み栄えあれ。アーメン」
 以上をもって礼拝が終わり、その週の集会や行事の報告があります。バイブル・サンデーの後は、新しい方々のための集まりもありますので、そこで、牧師に出会い、個人的な質問などもされるとよいと思います。


 
さあ、一度教会に行ってみましょう。これだけの知識があれば、もう何も心配することはありません。
 前から来ている人のように、スムーズに礼拝に参加することができます。そして、あなたの人生は神との出会いを通して、永遠の目的をもった、新しい、充実した人生へと変えられていくのです