ぶどう樹 〜よろこびの知らせ〜
 大切なあなたの”いのち” ぶどう樹 No.611

「わたしの目にはあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛している」 (聖書 イザヤ書 43:4)

 命は軽いもの?

 テレビ、新聞、インターネット・・・。連日報道される痛ましい事件、あまりにも人の命が軽んじられている現実に、心を痛めない日はありません。
「いのちの大切さ」は最大限に強調されるべきものですが、その大切さは何に由来するのでしょうか。
 わたしたちは学校で、「進化論」に基づいて人間は猿から進化してきた存在であると習います。そして、さらにさかのぼるなら、魚であり、アメーバーのような存在であり、そしてそのアメーバーのような存在は単なる偶然によって生まれてきたと教えられ、それが日本人の心の中に刻み込まれてしまっています。もし、わたしたち人間が偶然生まれてきて、進化してきた存在であるとするならば、偶然消えてなくなっても、何の問題もないことになってしまいます。
 そして、わたしたちの存在自体、何の価値もなく、かけがえのないいのちが失われたとしても、誰も気にかけることすらなくなるのではないでしょうか。

 神様に愛された人間

 本当にわたしたちは偶然に生まれてきたものなのでしょうか。そうではありません。神の言葉である聖書はこう言っています。
 「神は御自分にかたどって人を創造された。
 神にかたどって創造された。
 男と女とに創造された。」(創世記1:27)
 わたしたちは、神様に創造された存在です。しかも、神様にかたどって造られた、すばらしい存在です。なぜ、神様は人間を御自分にかたどって造られたのでしょうか。それは御自分の愛の対象として造られたからです。

 「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)
 「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ。」(エレミヤ書31:3)

 わたしたちは神様に愛され、望まれて生まれてきた存在です。価値ある存在です。
 決して偶然に生まれ、目的もなく生まれたのでもありません。

 
大切な、あなたのいのち

 あなたの命は神様から与えられた大切ないのちです。決して自らのいのちを絶ってはいけないのです。また、すべての人のいのちは神様から与えられた大切ないのちなのです。人のいのちを奪ってもいけないのです。
 あなた自身が、神様にとって価値があり、愛されている存在であることを知った時に、自分を愛し、大切にすることができます。また、他者も自分と同じ価値ある存在であることに気付き、愛し受け入れることができるでしょう。
 あなたが神様に愛されている存在であることを知るために、神様のもとに帰っていきましょう。あなたを愛し、いのちを与えられた神様は、両手を広げてあなたの帰りを待っておられます。「神は愛なり!」

 神の種 ぶどう樹 No.612

「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。」 (聖書 ヨハネの手紙一 3:9)

 
種って不思議

 子どもたちと「これは何の種でしょう?」というゲームをしたことがあります。
 なじみのある朝顔の種や、ひまわりの種は当てることができるのですが、長細いのや、羽のついているもの、堅い殻に包まれているものに、ずらりと並んでいるもの、種を見ただけでは、何の木か花かわからないものもたくさんあります。
 種って不思議ですね。種が大きいからといって、大きな木になるとは限りませんし、小さくても大きな木になるものもあります。種からは、花の色や形、そこからできる実を想像することはできません。
 不思議なのは、この小さな種の中に木や花、その実のすべての性質が含まれているということです。ですから、当たり前のことですが、ひまわりの種は ひまわりになりますし、りんごの種はりんごを実らせます。
 すごいと思いませんか?

 神の種

 聖書に、「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。 」(ヨハネの手紙一3:9)と言う言葉がありますが、「神の種」って何でしょうか。そこからはどのような花を咲かせ、実をつけるのでしょうか。
 「神の種」それは、神様の本質を秘めている(内蔵している)神様の名、御名です。聖書の中には神様の十二の御名が記されていますが、その一つが「我は主なり」です。
 「わたしは主(我は主なり)、これがわたしの名。」(イザヤ書 42・8)
 この御名の中に、神様の性質が全部含まれているのです。
 この「神の種」である御名、「我は主なり」と聞いただけでは、植物の種と同じように、何がそこに含まれているのか、神様がどのようなお方であるかを想像することはできないかもしれません。しかし、神の種がわたしたちの心という畑に蒔かれるとき、それは育って花を咲かせ、真の神、イエス・キリストがもっておられたすばらしい性質という多くの実を結ぶのです。

 あなたの心に結ぶ実

 さあ、この神の種「我は主なり」を、ちょうど植物の種を植えるように、あなたの心に植えてください。そして毎日、心からこの御名「我は主なり」を、「清い神様のような心になれますように」との気持ちを込めて、呼んでください。そうするなら、りんごの種が成長して、おいしいりんごの実を実らすように、「神の種」は、あなたの心で成長して、神様の姿という豊かな実を実らせるでしょう。
 「霊(聖霊)の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」(ガラテヤの信徒への手紙 5・22)

 神をほめ歌う ぶどう樹 No.613

「わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく、 神への賛美はいかに美しく快いことか。」 (旧約聖書 詩編 147:1)

 
歌がすべて ♪ ♪ ♪

 わたしはクリスチャンホームに生まれ、幼いころから教会に通っていました。また、わたしのすぐ下の妹が、生後間もなく難病にかかり、生存率5パーセントという宣告を受けましたが、祈りを通して奇跡的にいやされた経験を通して、神様は生きておられることを知りました。
 しかし大学生になり、音楽家になる夢を抱いて、奈良から東京へ行ったわたしは、次第に教会から離れてしまいました。大学で声楽を学んでいたわたしは、歌に対しては惜しみなく努力し、オペラやコンサートに出演して、高い評価を得ることをすべてとしていました。日々の生活は信仰とはほど遠く、祈ることさえ忘れている状態でした。

 
神様からのチャレンジ ♪ ♪ ♪

  そのような生活が6年も続いた2004年のある日、2人の妹が「神様のために働きたい」と、翌春、神学校に入学するとの連絡を受けました。わたしは大きな衝撃を受けました。わたしにとっては、小さいころからすべてを知っている妹たちです。彼女たちも多くの葛藤や苦しみをもっていました。それでも、神様のために働らこうとしているのを知り、それに比べて、わたしは何という自分中心な生き方をしているのか!わたしは本当に恥ずかしくなりました。わたしはどうしてよいかわからず、悶々としていました。
 そのような時、スミルナ教会の牧師が、妹たちの神学校入学を前にし、チャペルコンサートを企画してくださり、わたしを呼んでくださいました。わたしは大きな喜びと共に、言いようのない不安を覚えました。「もう長い間、教会から離れ、賛美歌も歌っていないわたしが、教会で歌わせていただいてよいのだろうか。」わたしは悩みました。さらに直前、40度の高熱が出て、声が出なくなってしまったのです。わたしは声が出ないことへの大きな不安と、悔しさでいっぱいになり、自分を見失ってしまいました。

 神様の愛に包まれて ♪ ♪ ♪

 しかし、2005年奈良に帰り、久しぶりに夜の集会に出た時、愛の神、イエス様は御手を広げ、わたしを待っていてくださいました。わたしは自分の罪の赦しを心の底から祈りました。
 2月のチャペルコンサートの当日、声が戻らない状態でしたが、「あなたがたがわたしを選んだのではない、わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネによる福音書 15:16)との聖書の御言葉が迫ってきて、「賛美をしているのはわたしではない。神様が力を与えてくださり、わたしを通して賛美してくださっている」との思いが強くなっていきました。そして、今まで感じたことのない充実感と、賛美歌からあふれてくる神様の愛に包まれていきました。
 さらに神様は、2月の終わりの日曜日、姫路教会でもチャペルコンサートを与えてくださいました。十字架に近い席に座っていました。すると、イエス様がわたしのすべての罪を背負ってくださったことを示され、悔い改めの祈りと共に、神様の大きな愛に押しつぶされそうになりました。
 この2回のチャペルコンサートによって、多くの恵みを受けました。去りがたい思いで、2日後東京に帰ろうとしたその夜、わたしは再び高熱で倒れ、緊急入院の結果、ノロウイルスにかかったことがわかりました。幾日も熱は下がらず、食べ物は受け付けず、ひどい状態が続き、結果として、3月いっぱい奈良にとどまることになりました。

 賛美のよろこび ♪ ♪ ♪


 その間、東京や山梨で予定していたコンサート、様々な依頼のすべてをキャンセルすることになってしまいました。本来なら悔しい思いをするところでしたが、なぜか心の中は平安でした。今までオペラやコンサートに出演することは喜びであったはずなのに、そこに神様がおられなければ無意味だと思うようになったのです。確かにいくらかの葛藤はありました。神様の愛と救いを知り、毎週教会へ行き、礼拝をささげ、祈りたい気持ちが強くなるほど、次々と東京での歌の仕事の依頼や、思いもよらない好条件の誘いがやって来て、自分の道について悩む日々でした。
 そのような時、心に、あのアシジの聖フランシスコ(12〜13世紀のイタリアの聖人)が、窓から自分の持ち物一切を捨てて神様に従っていった姿が迫ってきました。それはわたしの心が定まった喜びの瞬間でした。東京に戻り、今活動しているすべてを捨てようとした時、「もったいない」とかと言われました。しかし、わたしはただまっすぐに神様を見つめて、この歌を神様におささげし、小さい存在ですが、神様の道具とならせていただきたいと願いました。
 そして今、わたしは奈良に戻り、父の仕事を手伝いながら、聖歌隊員として、またチャペルコンサートで、喜びの中、賛美をさせていただいています。
 「神は愛なり!」

 かたりかける”十字架” ぶどう樹 No.614

「イエスは自ら十字架を背負い、……」 (聖書 ヨハネによる福音書 19:17)

 首に下げる十字架

 このごろ十字架を首に下げる人を見かけることが多くなりました。クリスチャンかな、と思いますが、アクセサリーとして人気があるようです。
 もともと十字架は最も重い罪をしでかした人を、さらし者にして見せしめにするためのものであったとしれば、びっくりして、外してしまうかもしれませんね。
 いやいや、あわてないで、そのままつけていてください。胸の近くで何か伝わってくるものがありますから。

 背負う十字架
 
十字架を首に下げるのではなく、背中に負った人がありました。アクセサリーではなく、深い目的があってのことでした。
 十字架の意味を知るには、聖書を見るのが一番です。
 「イエスは、自ら十字架を背負い」(ヨハネによる福音書 19:17)という言葉に、何かを感じませんか。
 十字架はイエスの人生の大きな目的でした。きょうまでこのために生きてきたのである以上、みごとに背負い切らなければならない、という決意が伝わってきます。

 背負わされた十字架

 十字架を無理やり背負わされた人もあったことが聖書に書いてあります。
 「イエスの十字架を無理に担がせた。」(マルコによる福音書 15:21)
 人生で十字架を背負わされる経験は、誰にでもあるはずです。そのような人は、「十字架を無理に担がせた」という言葉に共感を覚えるのではないでしょうか。
 それはどんな人で、どのような運命をたどることになったかも聖書に書いてあります。

 深みのある十字架

 十字架を背負っている人には、何とも言えない深みがあります。悲しみの表情の中から深みがあふれます。微笑みの表情からも深みがあふれます。
 十字架を背負っているあなたは、悲しみを恥ずかしがってはいけません。あなたの人生に深みを与えてくれているからです。
 十字架を背負っていて、思わず微笑みがあふれたら、深みのある微笑みを湛えることができたことを喜びましょう。

 十字架、それは愛
 
 今年は4月6日(金) がイエス・キリストの十字架の日に当り、その週が受難週になっています。あなたの十字架(受難)の意味にすばらしい答えを与える日になるでしょう。
 この紙面では十字架の意味をただひと言、「それは愛」とだけ申し上げておきましょう。十字架が、神の愛に触れる機会となったことを、きっと感謝なさるに違いありません。
 首に下げている十字架を外さないでください。背負っている十字架から逃げないでください。
 「神は愛なり!」 


 母の祈り ぶどう樹 No.615

「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」 (聖書 マタイによる福音書 15:22)

 母の信仰と祈り

 今日、わたしたちの社会、特に家庭を取り巻く状況は、様々な問題にあふれてはいないでしょうか。いじめや自殺、引きこもりや家庭内暴力、想像を絶する凶悪事件は後を絶たず、多くの人々が悩み苦しんでいます。
 それではこのような問題に直面している家庭に、解決と救いをもたらす方法はないのでしょうか。暗い世界を変える秘訣はないのでしょうか。
 ここに、一つのヒントを与えてくれる言葉があります。アメリカ合衆国の第十六代大統領、アブラハム・リンカーンの次の言葉です。
 「もし今日まで、わたしが何かなしえたことがあれば、それは信仰篤き母のおかげです。また今後わたしが何かなしえるなら、それも母の祈りのおかげでありましょう。」

 家庭の苦しみ
 
 新約聖書のマタイによる福音書十五章に、母の信仰と祈りが悲劇的な家庭を救った実例が記されています。
 どの家庭にも様々な問題はあるでしょうが、ここに一人の婦人の最愛の娘が病気で苦しむ姿リアルに描かれています。家庭の中では、一人が苦しめば家族全員が苦しみます。先の見えない暗闇の中で家族中が疲れ切り、悩み抜いていました。
 
 
キリストへの信仰

 そのような婦人のもとに、イエス・キリストの噂が聞こえてきました。イエスがあらゆる病気・患いをいやし、汚れた霊を追い出し、死人をも甦らせているというのです。
 彼女はワラにもすがる思いでイエスのもとに行き、叫びました。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」(マタイによる福音書15:22)と。
  「主よ、ダビデの子よ」、この短い言葉の中に、彼女のイエスに対するゆるぎない信仰が表されていました。
  「主」とは「天地万物を創造された神」を意味する言葉です。また、「ダビデの子」は「ダビデの子孫から出現する救い主」を表しています。彼女は彼女の前に立たれたイエスを心からそのように信じました。

 わたしを憐れんでください

 彼女が知ったことは、愛する娘の苦しみを通して、救われなければならないのは、実は、逃げ場を失い疲れ切っている自分自身であるということでした。
 そこで彼女は、だれかれではなく、「わたしを憐れんでください。」「わたしを助けてください」と叫びました。
 この母の切なる祈りと信仰に対して、イエスは、「あなたの願いどおりになるように!」(同15:18)と答えられ、娘はいやしを、母には慰めと安らぎを、家族には救いと喜びを与えられました。

 祈りは家族を変える
 
 今、これを読んでおられる方の中に、家族の様々な問題に、悩み苦しんでいるお母さんはおられないでしょうか。
 あなたの祈りは家族を変え、世界を変えます。あなたの涙のひとしずくが、現実を変え、家族にいやしと救いをもたらすと聖書は約束しています。
 あなたも声に出して祈ってみてください。
 「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください!」
 「主よ、わたしをお助けください!」
 その時、あの婦人とその家族を救われたイエスは、「あなたの願いどおりになるように!」と、あなたの祈りにも耳を傾け、みごとにこたえてくださるでしょう!
 「神は愛なり!」 


 平和の祈り ぶどう樹 No.616

  平和の祈り -アシジの聖フランシスコの祈り-

 ああ主よ、わたしを、
 あなたの平和の道具にしてください。
 憎しみのあるところに、
 愛をもたらすことができますように。
 争いのあるところにゆるしを、
 分裂のあるところに一致を、
 疑いのあるところに信仰を、
 誤りのあるところに真理を、
 絶望のあるところに希望を、
 悲しみのあるところに喜びを、
 闇のあるところに、
 光をもたらすことができますように。
 ああ主よ、わたしに、
 慰められるよりも、慰めることを、
 理解されるよりも、理解することを、
 愛されるよりも、愛することを求めさせてください。
 わたしたちは、与えるので受け、
 ゆるすのでゆるされ、
 自分自身を捨てることによって、
 永遠の命に生きるからです。
                アーメン


 6月23日

 沖縄では、休日が1日多い事をご存知でしょうか。それは6月23日、その日は沖縄の終戦記念日と言われ、県が「慰霊の日」と定めた休日です。
 第二次世界大戦中、沖縄県は本土防衛のため、一般市民を巻き込んだ国内唯一の地上戦の場となり、当時の人口60万人のうち15万人が犠牲となりました。そして1945年のこの日、現地の軍部司令官であった牛島満中将が自決し、形式的には、沖縄における戦争が終結しました。
 しかし、終戦後も、沖縄は戦争と隣り合わせでした。米軍による巨大な軍事基地が築かれ、太平洋の要石として、戦略上の重要な役割を担わされ、ベトナム戦争、湾岸戦争では多くの米軍兵士が沖縄から戦地に赴きました。大きな軍事基地は、沖縄住民の日常生活にも大きな影響を与えています。事故、事件、環境破壊、騒音に悩まされながら暮らさなければならない状況に60年余りもおかれているのです。

 キリストこそ平和
 
 多くの人が平和を願いながら、どうして、全世界から戦争がなくならないのでしょうか。聖書はこう言っています。
 「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。」(ヤコブの手紙4:1)
 聖書は、戦争の原因は人間一人ひとりの心の中にあると言っています。一人ひとりの中にある憎しみやねたみという醜い心がなくならなければ、決して本当の平和は訪れません。
 聖書はさらにこう言っています。
 「実に、キリストはわたしたちの平和であります。…十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソの信徒への手紙2:14,16)
 「彼(キリスト)こそ、まさしく平和である。」(ミカ書5:4)
 平和そのものであるキリストを、わたしたち一人ひとりの心に迎え、キリストによって争いの原因が取り除かれる時、まず、わたしたちの心に平和が訪れます。そして、その平和が全世界へと広がるのです。

 
 平和の祈り

 沖縄には「いちゃりばちょーでー(出会えば皆兄弟)」という言葉があります。それは、どんな人とでも仲良くしたい、という平和を強く願う心の表れだと思います。また、戦争を身近に感ぜざるを得ない沖縄に住んでいると、平和を求める心は一層強くなり、平和を祈らずにはおれません。
 「平和の神、キリストよ、わたしの心に来てください。わたしの心を平和にしてください。また、全世界にあなたによる真実の平和が訪れますように。」
 「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイによる福音書5:9)

 あたらしい歌をうたおう! ぶどう樹 No.617
「新しい歌を主に向かって歌え。主の慈しみに生きる人の集いで賛美の歌をうたえ。」 (旧約聖書 詩編149:1)

 ♯音楽の園

 クラシック音楽に興味をもつ人が増えているようです。ファン層拡大に一役買ったのは、ベストセラーになったある漫画作品だそうですが、そのストーリーの舞台となったのは、従来一般の人にはなじみの薄かった音楽大学のキャンパスでした。青春の憧れを満載した音楽の園。
 ちょっとのぞいてみたい気がします。

 ♭新しい歌

 ある音大生に話を聞く機会がありました。希望に胸をふくらませて、彼女はある音楽大学に入学しました。ところが彼女にとって喜びそのものだった音楽が、入学後しばらくすると苦痛をもたらすものとなってしまったのです。そこでは音楽が競争の具として用いられていたように感じたからでした。
 悶々としていたある日、彼女は誘われて初めて教会に行き、そこで聖歌隊の賛美を聞いたのです。
 彼女はこう言っています。「その時、今まで一度も体験したことのない大きな喜びと感動を覚えました。わたしが求めていた音楽は、まさにこれだと思いました。」
 音楽を専門に勉強していた彼女にとって、聖歌隊の合唱は、技術的には稚拙なものだったに違いありません。でも「隊員たちの輝いた顔と、何かに向かって心を一つにしている姿」に、言葉に表せないほど感動したそうです。
 それは彼女にとって体験したことのない「新しい歌」でした。

 ♪新しい歌

 彼女は「新しい歌」を歌いたいと思いました。でもそれには一つだけ条件があったのです。イエス・キリストは言われました。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネによる福音書3:3)
 新しく生まれるとはどういうことでしょう?「わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなた方に肉の心を与える」(エゼキエル書36:26 新改訳)と聖書に書かれています。
 人はみな生まれながら石の心を持っていて、そこから妬み、敵意、高慢、劣等感などが生まれてきます。それを除かれ、肉の心(愛の心)、を与えられる時、人は新しく生まれるのです。新しく生まれなければ「新しい歌」を歌うことができません。
 彼女は新しい歌を歌うために、「新しい心」を求めました。そしてついにそれを得た時、彼女の音楽も、人生もまったく変わってしまったのです。
 音楽は、彼女に今までなかった深い天的な喜びをもたらすものとなりました。

 ♪♪さあ歌いましょう

 あなたも「新しい歌」を歌ってみませんか。
 もちろん音楽大学に入る必要はありません。音符が読めなくても、歌など歌ったことのない人でも、大丈夫。それを歌えるようになったとき、あなたの人生は、今まで経験したことのないまったく新しい味わいをもつようになるでしょう。
 「主は新しい歌をわたしの口に授け、われらの神にささげるさんびの歌をわたしの口に授けられた。」(詩編40:3口語訳)
「わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授ける。」(エゼキエル36:26口語訳)

  
 扉をたたいて ぶどう樹 No.618
 「最も大いなるものは、愛である。」(聖書 コリントの信徒への手紙13:13)

 ●空虚な日々

 わたしはある宗教に熱心な家庭に生まれ育ち、子どものころから朝晩の勤行も欠かさず続けてきましたが、成人してからは信仰に確信をもてなくなってきました。
 やがて今の主人と出会い結婚したまでは良かったのですが、世間知らずのまま結婚したわたしは、理想と現実のギャップに、日々苦しむようになりました。毎日のように繰り返されるけんか……。
 しかし、心の内を話せる友人は海外におり、わたしの結婚を心から喜び、至れり尽せりの準備をしてくれた両親には、苦しい胸の内を話すことはできませんでした。
 精神的に追いつめられたわたしは、自分自身を傷つけることで現実から逃れようとしていました。

 ●わたしの求めていたもの

 そんな時に、友人が結婚式に招待してくれました。友人はクリスチャンではありませんでしたが、キリスト教による結婚式を挙げたのです。
 わたしは初めてキリスト教式の結婚式に出席しました。そこで牧師がプログラムに印刷されている聖書の御言葉を読み上げた時、その御言葉に強くひかれたのです。 家に帰り、もう一度ゆっくりとその御言葉を読み返してみました。それは新約聖書の次の御言葉でした。
 「愛がなければ無に等しい。…… 愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
 愛は決して滅びない。……信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(コリントT13・2、4〜8、13)

 ああ、ここにわたしの求めていたものが、今のわたしに足りないすべてのものがあると思い、キリスト教のことせ知りたい、教会に行ってみたいと思うようになりました。
 その時、結婚してこちらに移ってきた時に、近くで見かけたことのある教会を思い出しました。

 ●教会の扉をたたいて

 とはいえ、長年実家の信仰を続けてきたわたしにとって、教会に行くということは、とても勇気と決心のいる難しい問題でした。
 自転車で散歩がてら教会の前まで行き、集会案内の看板を見ては帰るということを何回も繰り返す日々が続きました。そして迷いに迷った挙げ句、ついに勇気を出して教会の扉をたたいたのです。
 それから、わたしの教会通いが始まりました。何もかもが初めて見開きすることでわからないことだらけでしたが、皆さんの優しい温かな励ましを受けながら通い続けていきました。
 教会へ行けば何か変わるかもしれないと思っていたその何かが、神の愛と命であることを知ったのです。

 ●神様の深い愛

 そして、2001年6月の礼拝を迎えました。メッセージをお聞きしているうちに、その内容に感動を覚え、まるでわたし自身のことを言われているように感じました。
 聖書の御言葉が強く心に迫ってきました。「イエス様、わたしを赦してください。わたしを変えてください。あなたこそ、生ける神の子キリストです。『神は愛なり!』」と神様の御名を唱えていると、わたしの心の深いところから「神は愛なり!」「神は愛なり!」と御名が溢れ出てきたのです。
 「ああ、わたしは神に出会った! 愛の神様であるイエス様が、今わたしの心の中に来てくださった!」何ともいえない平安と喜びに心が満たされていくのを感じました。それは、聖書の御言葉通りの体験でした。
 神様と出会って以来、日々、神様の御言葉である聖書に生かされつつ歩んでいます。

 この体験談を記しながら、わたしは涙をとどめることができませんでした。
 一つひとつを思い出すたびに、再び神様の深い愛を感じずにはおれないからです。「神は愛なり!」

  聖イエス会便徒教会(岡山市)信徒
 喜び 感謝 輝くセカンドライフ ぶどう樹 No.619
「いつも喜んでいなさい。……どんなことにも感謝しなさい。」 (聖書 テサロニケの信徒への手紙一 5:16〜18)

 ◆2007年問題

 今年、2007年から日本経済の中核を担ってこられた「団塊の世代」の方々の大量退職が始まりました。これから3年間で600万人以上に及ぶと言われ、大量退職により様々な分野への影響が心配されています。
 多くの方が企業戦士と言われ、自分を犠牲にして働き、人生の荒海を乗り越え、無事に退職まで漕ぎつけ、感無量であられることでしょう。
 それでも、日本人の平均寿命が八十歳を超えた今、退職後に待ち受ける二十年間は、老後というには長すぎる、文字通り第二の人生、セカンドライフと言うべきでしょう。
 皆さんは、このセカンドライフをどのようにお過ごしになるのでしょうか。希望をもって新たな旅立ちをされる方にも、新しい生活スタイルに不安をもっておられる方にも、充実した、輝くセカンドライフを送っていただきたいと願います。

 ◆いつも感謝です

 聖書に、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(テサロニケの信徒への手紙一5・16〜18)という言葉があります。短い言葉ですが、実行するのは大変難しいものです。自分の思い通りにことが運ぶ時には、だれでも喜び感謝することができるでしょうが、逆境の時はどうでしょうか。
 わたしの教会に、働き盛りの人生これからという時、右足切断という不慮の事故に遭遇しながら、会う人ごとに「感謝です」と、笑顔をもって答える方がおられます。
 その方は、10年ほど前47歳の時に、食品加工会社のベルトコンベア一に足を滑らせ、食品添加物を注入するパイプが三本、足の甲を貫通し病院に運ばれました。一週間後、ガス壊疽(えそ)菌の感染がわかり、右足膝下から切断の宣告を受けられました。これから足を切断する人を前にして、同情の言葉も、牧師の肩書きも何の役にも立ちません。わたしは、ただ祈ることしかできませんでした。
 足の切断から十日目、病室に入ると、手術を終えた足を、天井から吊り下げておられました。わたしは聖書を開き、「主の名を呼び求める者は皆、救われる。」(使徒言行録2・21)そして、「我は主なり」と、神の御名を唱えて祈りました。
 その瞬間、その方のお腹の底から、「我は主なり」という神の御名が洪水のようにあふれてきたのです。それは聖書が示す、真の神であるイエス・キリストが心に宿られたしるしでした。
 それ以来、「感謝です。感謝です」と言われるので、「あなたは足を失っても感謝なのですか?」とお尋ねしますと、「自分でもわからないのですが、いつも心の中からジワーッと喜びが泉のようにわきあがってきて、心を満たすのです」と答えられるのです。

 ◆輝くセカンドライフ

 強い人間であれば、歯を食いしばって我慢したり、耐えたり、諦(あきら)めの心境にはなれるでしょう。しかし、足を切断することになり、だれが喜び感謝することができるでしょうか。
 悲しみを喜びに変え、苦しみを感謝に変え、絶望と不安をゆるぎない平安に変えられるのは、人の心を造り、心に宿ってくださる愛の神、主イエス・キリストのみです。
 キリストは言われました。「わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。」(ヨハネによる福音書14・27、口語訳)それゆえ、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と言われるのです。
 第二の人生、そこにはこれまでの人生と同様、様々な出来事があるでしょう。素直に喜べること、楽しいこと。また、老いという現実に直面し、苦しいこと、悲しいこともあるでしょう。しかし、どのような時でも、セカンドライフを輝かせるもの、それはわたしたちの内に宿ってくださる真の神、主イエス・キリストです。
 あなたのセカンドライフが、どのような場面でも、キリストにあって輝きますように。
  
 フィナーレ 〜老いと死を見つめて〜 ぶどう樹 No.620

「動物は死に対して下降線を描いて向かっていくが、人間は死に対して上昇線を描きながら向かってゆけるのです。」

 これは、死の哲学で有名な上智大学名誉教授アルウォンス・ディーケン神父の講演会で聞いた言葉です。

 祖父の死を思い起こしながら、本当にその通りだなと実感しました。

 ●祖父の老い

 わたしの祖父は明治生まれで、戦前からのクリスチャンでした。
 戦時中に信仰をもつことは非常に困難だったようですが、それでも信仰から離れることはありませんでした。
 強い信念をもっている反面、頑固なところもあり、自分にも他人にも厳しい一面がありました。
 大きな病気もなく米寿(88歳)を迎えましたが、90歳を過ぎてからは、年々体力が衰えていきました。
 次第に、生活の援助や介護が必要になってゆきましたが、そのほとんどを娘である母が一手に引き受けていました。孫であるわたしも入浴の介助など、小さな介護をしていました。
 何でも自分でこなしていた頑強な祖父が、何もできなくなっていく過程を間近で見ながら、「自分もこのように老いていくんだな」と思い、自分の老後をどうするのか、人生をどのように生きるのか、老いへの恐れを感じながら幾度となく考えました。
 介護が必要になりだした始めのころは、ディサービスなどに行くことを嫌がり、祖父の内にあるプライドが見え隠れしているように思いました。けれども、体が衰えれば衰えるほど、ケアが必要になればなるほど、その口からは感謝の言葉が多く出てくるようになっていきました。
 「ありがとうねえ。」「すまんのう。」「助かるわぁ。」
 弱りながら死に向かっている祖父ですが、キリストへの信仰により上昇線を描き、心から感謝があふれていました。
 その姿は、家族全員が認める祖父の生き方の集大成でした。

 ●キリストによって輝く最期

 そんな祖父の姿を見ながら、何が祖父の老いを支配し導いているのだるうかと考えました。老いていく中で、理性を失い、自分をコントロールすることができなくなるかもしれません。そのような中でも、死に向かって上昇線を描くためには、老いを、人生そのものを導いてくださる方が必要なのではないかと。
 その方こそ、祖父と共に人生を歩んでくださったイエス・キリストであり、このキリストが、人生の最後の時にも主導権を振り、より一層祖父の人生を輝かせてくださったことに気がついたのです。
 聖書にこのような言葉があります。
 「死は勝利にのみ込まれた。 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。 死よ、お前のとげはどこにあるのか。」(コリントの信徒への手紙一155455
 キリストの十字架による救いを体験し、キリストと共に生涯を歩んだ祖父にとって、死は人生を呑み込む恐怖ではなく、すべての終わりでもなく、人生の最後を輝かせてくれるものでした。
 祖父の老い方、死に向かって上昇する姿は、祖父が完全な人間であったという証しではなく、イエス・キリストが祖父を死に向かう上昇線にのせてくださったことと、さらに死の彼方に、永遠の生命が存在することの何よりの証しでした。
 老いも死も避けることはできない現実です。しかし、まことの神、救い主であり、永遠の命であられるイエス・キリストと共に歩むなら、キリストが毎瞬間、毎日、そして死の瞬間までわたしたちの確かな希望となられるのです。
 そして、老いと死に向き合いながら、終わることのない上昇線を描き、永遠の命を目指して人生を走りぬくことができるのです。 (文・島田光輝 伝道師)

 The Letter From a friend 〜友からの手紙〜 ぶどう樹 No.621
「あなたがたはわたしの友である。」(聖書 ヨハネによる福音書15:4)

 ●友からの手紙

 あなたが苦しみや試練に遭う時、心の悩みを誰かに聞いてほしいと思う時、そばに友達や家族がいてくれることほど、大きな助けになることはありません。しかし、友達や家族もなく一人ぼっちで悩んでいる人も多くいるでしょう。
そんな時、だれも理解してくれないと落胆する前に、あなたのすぐそばで、あなたの心の友になりたいと、呼びかけておられる方がいらっしゃることに気づいてほしいのです。
 カナダに住む詩人、マーガレット・F・パワーズは「ある友からの手紙」という詩をつづっています。この詩は、彼女が、大竜巻の中で、奇跡的に助けられた体験から生まれました。
 手紙の送り主は、自分の思いを伝えたくて、日の出の輝きや、暖かい日差しを投げかけますが、受け取った人は気にも留めません。そんなことが繰り返された後、大きな試練の中で、自分のそばにいて恵み守ってくださる方の存在に気づくのです。
 この手紙の送り主はイエス・キリストでした。

 ●わたしにも届いていた手紙

 わたしは、この詩を読んでいるうちに、若き日の自分の姿がよみがえってきました。
 幼稚園のころ、川でいかだ遊びしていた時、さおが折れて流されたにもかかわらず、不思議と岸にたどり着いたこと。高校生時代、自転車で国道を走っていた時、暴走してきた車にはねられそうになったこと……。
 そんな大事故につながりかねない出来事の中で、自分を超えた大きな力に守られていたのに、わたしは、その方の存在に気づいていませんでした。でも、大学受験を前にして、足の病気で三週間ほど床に就かねばならなくなった時、わたしに呼びかけておられるイエスの御声に気づいたのです。
 わたしは心から答えました。「イエス様、今までわたしを守っていてくださったのに、あなたを知らずに過ごしていたわたしをお許しください。今、わたしの心に来てください。そして、わたしの友となってください。あなたこそまことの神、救い主です。」
 それから半年後、イエスは、「わたしはあなたの上に大きなすばらしい計画をもっている。わたしは主である」と、生涯の友となることを約束してくださいました。
 十八歳の秋でした。

 ●あなたの返事を待っておられる

 静かに心の耳を澄ませましょう。きょう、イエスはあなたのそばに立ち、呼びかけておられます。「わたしはあなたを人生の嵐から救いだそう。いつもあなたのすぐそばにいる。わたしは主である。」
 イエスの生涯を伝える新約聖書を開きましょう。それは、あなたに呼びかけておられるイエスの御言葉が記された、あなたへの手紙です。
 「あなたがたはわたしの友である。……あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネによる福音書15・14、16)
 イエスは知恵と力に満ちた友です。
 イエスは愛と憐れみに富んだ友です。
 イエスは裏切ることのない永遠の友です。
 あなたの友イエスは、あなたからの返事を待っておられます。(文・佐藤捷雄 牧師)

ある友からの手戯
         マーガレット・F・パワーズ

どんなに、わたしが、あなたのことを心にかけているか、
そして、どんなに、わたしのことを、
もっと、あなたに知ってもらいたいと思っているかを伝えたくて、
わたしは、今、この手紙を書いています。
あなたが、けき、目覚めた時、
わたしは、さんぜんと光り輝く日の出を、窓超しに見せて、
あなたの注意を引こうとしました。
しかし、あなたは、急いで去ってしまいました。
そのあと、わたしは、
あなたが友人たちと話しながら歩いているのを見つけました。
わたしは、あなたに、暖かい日光をいっぱい浴びせました。
そして、大気中に、自然の甘美なにおいを漂わせました。
しかし、あなたは、急いで去ってしまいました。
わたしに、気づくこともなく。

それから、わたしは、太竜巻の中で、あなたに叫びました。
わたしは、あなたのために、美しい虹を空に描きました。
その晩あなたは、わたしをちらっと見ました。
それでも、なお、あなたは急いで去ってしまいました。
その夜、わたしは、月の光を、あなたの顔にこぼし、
冷たいそよ風を送りました。
あなたを休ませ、あなたの恐れを取り去るために
わたしは、眠っているあなたを見守っていました。
あなたと同じ思いを味わいながら……
あなたは、かすかに、わたしがすぐそばにいることに気づきました
わたしが、あなたを選んだのです。
わたしは、あなたに、特別な使命を与えています。
あなたが、すぐに、わたしに話しかけてくれることを願っています。
わたしが、あらしの中から、あなたを救い出したのです。
他の人たちは、暁を見ることはできませんでした。
私は、いつも、あなたのすぐそばにいます。
わたしは、あなたの友です。
あなたをこの上なく愛しています。

              あなたの友、イエス

「あしあと」発行所/(財)太平洋放送教会
 
 Merry Christmas 〜或るクリスマスの出来事〜 ぶどう樹 No.622
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」(聖書 ルカによる福音書2:11)

詩・カトリック司祭 佐久間 彪

老いた ひとりの農夫が
ゆり椅子に 身をゆだねて
暖炉の火を みつめていた。
遠く 教会の鐘が鳴っている。
クリスマス・イブ。

彼は もう長いこと
教会に背を向けて生きてきた。
「神が人間になった、だと?
馬鹿々々しい。
だれが そんなこと信じるものか。」

眼を閉じ、薪のはじける音を聞きながら
彼は まどろみかけていた。

突然
窓ガラスに 何かがぶつかる烈しい音。
それも次々に、 更に更に烈しく。
何事かと、彼は身を起こした。

窓際に立って 見たものは
音も無く雪の降りつもる夜闇の中に
この家めざして押し寄せてくる
おびただしい小鳥の群れだった。

雪闇に
渡りの途を誤ったのだろうか
小鳥たちは ともしびを求めて
ガラス窓に次々と打ち当たっては
むなしく軒下に落ちていく。

彼は しばし呆然と
その有様を眺めていたが
外に出るや 雪の降り積もるなか
一目散に納屋へと走った。

扉を大きく左右に開け放ち、
電灯を明か明かと灯して
乾草をゆたかに蓄えた暗い納屋へ
小鳥たちを呼び入れようとした。
「こっちだ、こっちだ、こっちへ来い!」

しかし はばたく小さい命たちは
彼の必死の呼び声に応えず
ガラス窓に突き当たっては死んで行った。

農夫は 心のうちに思った。
「ああ、私が小鳥になって、彼らの言葉で
話しかけることが出来たなら!」

一瞬 彼は息を呑んだ!
彼は
瞬時にして悟ったのだ。
「神が人となられた」ということの意味を。
彼は思わず その場にひざまずいた。

今や、人となり給うた神の
 神秘にみちた愛が
ひざまずく農夫を
 静かに被い包んでいた。
彼の上に降りかかり降り積もる雪は
そのしるしとなっていた。