| わすれないで”伝えたいことがある” ぶどう樹 No.623 |
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「わたしは思うのですが、戦争の責任は、偉い人たちや政治家、資本家だけにあるのではありません。そうなんです、責任は名もない一般の人たちにもあるのです。そうでなかったら、世界じゅうの人びとはとうに立ちあがって、革命を起こしていたでしょうから。もともと人間には破壊本能が、殺戮の本能があります。殺したい、暴力をふるいたいという本能があります。ですから、全人類がひとりの例外もなく心を入れかえるまでは、けっして戦争の絶えることはありません。」 (1944年5月3日の日記から)(『アンネの日記』完全版 深町真理子訳 文芸春秋)
これは第2次世界大戦時代、ナチスによるホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)から逃れるため、オランダのアムステルダムの運河沿いの隠れ家に身を潜めた少女、アンネ・フランクが書き残した日記の一文です。
「なぜ人間は仲よく暮らすことができないのか」という人類の問いかけに、彼女は自分が見つけた答えを日記に記しました。
小さな一室で記された『アンネの日記』は、今も色あせずわたしたちに語りかけてきます。
●アンネの父、オットー氏と出会う
それは偶然の出会いから始まりました。1971年、一人の老紳士がイスラエルを旅行中のわたしたちに近づき、「わたしの娘の書いた日記を読みましたか?」と尋ねてこられました。老紳士はアンネ・フランクの父、オットー・フランク氏でした。
家族の中でただ一人、ホロコーストから生還されたオットー氏は、今日まで歴史の中で繰り返されてきた憎しみの連鎖を断ち切りたいと願われ、娘のアンネが望んだ平和の実現に、ただ黙々と生きてこられました。どれほど多くの人が、オットー氏の人柄に触れ感動し、勇気を与えられたことでしょう。
このオットー氏との出会い以来、「平和のために何ができるか?」と問い続けてきました。その問いがホロコースト記念館の誕生につながったのです。
●ホロコースト記念館誕生
1995年、日本最初のホロコースト記念館(広島県福山市)が建設されました。
今日まで8万人が訪問され、「歴史の悲しい事実を知ったけれど、何か勇気を与えられました」と語りつつ帰路につかれました。
創立10周年(2005年)、アンネのいとこであるバディ・エリアス氏がスイスから駆けつけ、アンネの思い出を語ってくださいました。わたしは思わず、アンネが日記を書いていた「アンネの部屋」を日本で再現し、訪れた人々とアンネが出会ってほしい、との思いをバディ氏に打ち明けました。
その結果バディ氏は、オットー氏が愛用しておられたタイプライターや、今日まで家族で大切にしてこられた150点以上ものゆかりの品々を、喜んで提供してくださいました。
ホロコースト記念館は、世界や日本の多くの善意ある人々の惜しみない支援によって、昨(2007)年10月2日に装いを新たに、「新ホロコースト記念館」としてオープンしました。訪れてくださる人々が、平和と希望を見出してほしいとの思いを込めて。
●語りかける展示物
ぜひおいでくださり、当時のユダヤ人たちを閉じ込めていた、高さ3m50㎝のゲットー(ユダヤ人を隔離収容した区域)の壁に触れてみてください。また、暗黒の時代に一人のユダヤ人の命を助けるために、勇気をもって行動した正義の人びとが存在したことを知って下さい。
忠実に再現された、アンネが隠れ住んだ部屋の壁や、当時と変わらないインクで記された精巧な『アンネの日記』のレプリカ(複製)と対話してみてください。
ホロコーストで、600万人のユダヤ人の命が奪われ、そのうちの150万人は幼い子どもたちでした。150万という数が、カラフルで個性を持つ一つひとつの命であったことを、ビーズ・オブジェは語りかけています。
テレジン収容所(チェコ共和国北部)で11歳のフリードリヒ少年は、「もう蝶(ちょう)は飛ばない」という詩をつづりました。大空に向かって飛翔するステンドグラスの蝶の姿に、失われた子どもたちの自由と平和への憧れを感じてください。
アンネのバラ園にたたずむアンネ像は、本郷寛氏(東京芸術大学教授)の力作です。このアンネ像は苦難と戦い、それを克服したいと今も願っている、彼女の深い人間性を表しています。
これらの一つひとつの展示物が、訪れる人々の心に語りかけ、平和について考えるきっかけとなることを願っています。
「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイによる福音書5:9)
「キリストに結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。」(コリントの信徒への手紙二5:17)
(文 ホロコースト記念館館長 大塚 信)
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| 共にいてくださる愛なる方 ぶどう樹 No.624 |
「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し……わたしはあなたと共にいる。」(聖書 イザヤ書43:4-5)
聖イエス会神言教会(神奈川県平塚市)松崎真慈
●○いじめられっ子、そして人間不信
わたしは平凡なサラリーマンのクリスチャンの家庭に生まれました。ごく普通に生活を送っていましたが、幼稚園の時の引っ越しを機に、いじめられるようになりました。
いつも小ばかにしたあだ名で呼ばれ、何かあるとからかわれ仲間はずれにされました。スポーツが苦手だったのも、いじめに拍車をかけました。野球やサッカーなどのチームでやるものなど、必ず仲間はずれでした。
毎日続く悪口や陰口に、学校では身の置き場がありませんでした。学校の行き帰りでも囲まれて小突かれたり、一緒に帰るグループから置いてきぼりをくったりしました。治るのに一か月以上かかるような怪我をさせられたこともあり、毎日、次はどんなことをされるだろうかと、怯えていました。
そのような中で、人間というのは身勝手なものだ、という思いが心を支配するようになりました。あるガキ大将が先頭に立っていじめていたのですが、その子がいない時は、皆、このガキ大将についてひどいことを言います。ところが、そこへ本人が来たりすると、手のひらを返したように態度を変えるのです。
どんなに良い人に見えても、いざ自分の身に害が及ぶとなると結局裏切るものなのだ……。そのような人間不信の思いに支配されていたわたしは、いつも投げやりで、短気で、目を尖(とが)らせていました。半面、不安と失望、心の傷に悩まされ、ため息でいっぱいでした。
○●愛の神がわたしの内に
両親はクリスチャンでしたので、神様に解決があると、毎週教会へ連れて行ってくれました。しかし、教会は嫌な場所でした。特に「愛」が語られると、とても興ざめでした。わたしにとって、愛などしょせんきれいごとでしかなく、それを強調する教会を内心鼻で笑っていたのです。
ところが、その教会でわたしの心を捉える話がありました。それは、聖書に記されているキリスト再臨についてでした。「この世界はいつか大きな転機を迎える。その時、キリストは再びこの地上に来られ、すべての人間は、決定的に、永遠に裁かれる。そしてその時、救われ、天国に行くためには、救いの保証である聖霊が必要である。その聖霊を得るためには、イエス・キリストを唯一の神、救い主と信じて、神様の御名『我は主なり』を呼ぶことだ」と語られたことす。
神様に対して不信感を抱いたわたしですが、この話が気になって仕方ありませんでした。そして、わたしも救われたいと、はじめて本気で、神様を求め、祈るようになりました。
小学校4年生の夏、その日は大人と子どもたちが一緒の礼拝でした。その時、牧師がこのように語られました。「体の調子の悪いところがあるでしょうか。その人は自分の右手を、その悪いところにおいて祈ってください。主は来てくださって、その手をおいた悪いところを、いやしてくださいます。」
いつになく素直な気持ちになり、自分に悪いところはあるだろうか、と思い巡らしたのです。すると、思い当たるものがありました。それは体というより、心でした。
外ではいじめられるわたしですが、家では兄弟の一番上として、暴君のように振舞っていました。親に言えないことをし、思いを抱くわたしでした。同情心に薄く、自分勝手で冷酷なわたしでした。自分のうちにも、醜い罪があることに気付いたのです。
そんなことを思いつつ、右の手を自分の胸に当ててみました。「我は主なり!」と御名を呼び、いつしかわたしは真剣に祈っていました。涙があふれ出し、御名が生き生きとわたしの内から流れ出たのです。
集会が終わり、帰り支度をしている時、十字架のキリストに目がとまりました。その途端、自分の心の内の何かが割れて、今まで感じたことのない、熱いものがその裂け目からあふれるのを感じました。
愛、愛がわたしの内からあふれ出てくる。十字架の主に釘付けになったわたしの目からは涙があふれ、心は熱い愛に満たされていきました。愛なる神様が、わたしの殺伐とした心に来てくださったのです。「神は愛なり!」
●○新しくされたわたし
わたしは変わりました。心がいつも満たされているので、落ち着きました。恐れは去り、あのとげとげしく、張り詰めた気持ちがなくなったように思います。神様が共にいてくださる、という強い感覚は、孤独に対する怖さを忘れさせました。仲間はずれにして喜んでいたいじめっ子たちは、何をしても平気でいるわたしにいつの間にか関わらなくなっていきました。
そのうち、今度はわたしのほうから、教室の片隅でかつての自分のように一人でいる人を見つけては、話しかけるようになりました。その人たちが友達になり、そんなわたしたちを見ていたほかの人もその輪に入るようになり、気がついたらその輪の真ん中にいる自分を発見したのです。そうです、もうかつての自分ではありません。新しい自分がそこにいました。
「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(コリントの信徒への手紙二 5:17)
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| あたらしい ”いのち” ぶどう樹 No.625 |
「この方こそ、真実の神、永遠の命です。」(聖書 ヨハネの手紙一5:20)
文:諏訪聖美 伝道師
●イースターエッグ
最近は日本でも、街で「ハッピー イースター」と銘打って、イースターエッグのお菓子やグッズを見かけるようになりました。カラフルな卵型のチョコやゼリーな
どかわいくて楽しいものがいろいろあって、一つ買ってみたくなります。
バレンタインはチョコレート、クリスマスはケーキ、イースター(キリストの復活祭)は卵と、これらをキリスト教由来と知らなくても、「西洋のお祭りはおいしそ
う!」と思う人は多いかも知れません。しかし、どれも本来の出来事とは無関係です。
イースターエッグの起源にも諸説がありますが、ひよこが殻を破って出てくるところが、墓から復活されたイエス・キリストを想起させるのかもしれません。
● 二つの命
ところで、二種類の卵があるのをご存じでしょうか。有精卵と無精卵です。
小学校の理科で、有精卵を膵卵器(ふらんき)に入れ、三週間ほどすると、かわいいひよこが生まれました。見た目は同じ卵なのに、有精卵からはひよこが生まれ、
無精卵はただ腐っていくのです。
前者は卵の中に、卵の命とひよこの命、二つの命がありました。一方後者には、卵の命はありましたが、ひよこの命はありませんでした。
●命の主、キリスト
二千年前、この地上を歩まれたイエス・キリストは、見た目は普通の人間でしたが、そのご本質は、「この方こそ、真実の神、永遠の命です。」(ヨハネの手紙一
5:20)
ですから、十字架につけられ一度は死んで葬られましたが、自分自身の中にある神の命によって復活したのです。
それだけで終わったのではありません。さらに聖書にはこう書いてあります。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一
人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネによる福音書3:16)
●あたらしい いのち
キリストは、ご自分のもつ永遠の命を、人間に与えるために来られました。
卵の命しかもたず、墓に入ったら終わりという人間に、死という殻を破って新しく生まれる全く別の命を与えてくださるのです。卵とひよこが全く違うように、キリ
ストのくださる新しい永遠の命は、親からもらった命とは全く違います。
そしてこの二つの命がすでに卵のうちにあったように、新しい命も、わたしたちがこの地上に生きている、今この時、もつことができます。
●だれに?
では、どのような人が、その命を手に入れられるのでしょう?
先ほどの言葉に「独り子(イエス・キリスト)を信じる者が……永遠の命を得る」とありました。たくさん修行した者でもなく、たくさん善行した者でもなく、ただ
イエス・キリストを自分の神、自分の救い主と信じた人に与えられるのです。そして、その御名を呼び求める者に与えられるのです。
「主の名を呼び求める者はだれでも救われる。」(ローマの信徒への手紙10:13)
さあ、あなたもこの命いを得て、本当の「ハッピー イースター」を迎えてください。
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| 子育ても 神様に支えられて ぶどう樹 No.626 |
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、こわらのものはみな加えて与えらわる。」(聖書 マタイによる福音書6:3)
◎生活が一変した子どもの誕生
初めての子どもが生まれたころ。自分の生活ペースは吹っ飛び、赤ちゃんの世話に明け暮れる毎日に「子どもが生まれるってこういうことだったんだ……」とぼう然
としました。
不慣れな育児に不安を募らせ、「わたしはダメな母親だなあ」と落ち込んでいたとき、神様は教えてくださいました。
「今あなたは、子どものことを心配し、疲れ切っている。しかし、子を思うその心こそ、母親として一番大切なものなのだよ」と。
要領が悪くても、時間がかかっても、子どもによくしてやりたいと思う心、それがあれば大丈夫。
わたしは慰められ力づけられ、子育ての新しいスタートとなりました。
◎こんなはずでは……
三番目の子どもが幼稚園に入った時、困ったことが起こりました。園になじめず、朝送っていったわたしが帰ろうとすると、泣いてしがみつくのです。そのうち慣れ
るだろうと思っていましたが、二学期になり、年が明けてしまいました。「こんなはずでは……」自分の子育てを反省しました。
そんな時、思ったのです。わたしはこの子のために何を求めているのだろう、この子の本当の幸せって何だろうと。その時、聖書の言葉が心に響いてきました。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイによる福音書6:33)
目に見える幸せよりも、まずこの子が神様を知り、神様と共に歩んでいけるように祈り求めなさい。そうすれば必要なものはみな与えられる。社会性も、生きていく
力も……。
そしてこのときから、この言葉がわたしの子育ての中心に据えられたような気がしました。
その後、小学校に入学し、二年後に転校。担任の先生からは次のように言ってもらうことができるようになっていました。 「友達がたくさんできて、転校してきた
とは思えませんね。」
確かに神様は、聖書の言葉どおり、助けてくださっています。
◎「親の思い通りに」ではなく
わたしは教育心理学を専攻したせいもあってか、「親の養育態度が子どもの人格形成に大きな影響を与える」と考えていました。確かにそうかもしれません。でも、
実際に子育てをする中で、「人には生まれながらのその人らしさがある。」そして、「子どもは親の思い通りにはならない」ということも感じます。
今わたしは、「親の思い通りに」ではなく、「神様の願われるように」育ってほしいと思っています。神様の願いは純粋な愛から出ているので、その子にとって最善
です。
そのことを、わたしも日々の小さな体験を通して実感しています。
◎あなたと子どもを愛してくださる神
今、大変な思いをして子どもを育てておられるお母さん! ひとりで子育ての重荷を背負い込まないでください。あなたとあなたの子どもさんを愛してくださってい
る神様がおられます。この神様に向かって心を開いていくなら、あなたの肩から重荷が取り除かれるでしょう。
あなたが神様を求めていかれるなら、あなたに必要な力が、愛が、すべてが、与えられるでしょう。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイによる福音書6:33)
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| あなたへの最上の贈り物 ザ・バイブル ぶどう樹 No.627 |
「あなた(神)の御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。」(聖書 詩編119:105)
★本当のバイブルとは?
わたしたちの人生は、生まれてから死ぬまで、一日として問題のない日はないといっていいでしょう。
自分自身の問題、進路、結婚、子供の教育や家庭問題、仕事や職場での人間関係の問題、病気、老後、そして死の問題……、数え上げれば際限がありません。あなたはこれらの問題にどう対処されているのでしょうか。
最近では、これらの問題を少しでも解決するために、様々な「バイブル」と呼ばれる本が出版されているようです。しかし、「ザ・バイブル」、「聖書」こそはバイブル中のバイブルです。
★人生を変え、支え、導く光
わたしは、何年もの間、毎日聖書を読んでいますが、その深さ、広さ、大きさに驚きます。そこには新たな発見や感動があります。聖書の言葉は、今日までのわたしの歩みを支えてくれました。
わたしは、長い間、誰にもいえないコンプレックスを抱えており、心の中でいつもブレーキをかけてしまう自分、またそれを人に隠そうとしている自分が嫌でした。
自らの考えや行動は、わたしを正しい道には導かず、早く内面の壁を破らなければと焦るほど、八方ふさがりの状態でした。そんなわたしを力づけ、支え、進む道に光を投じてくれたのが聖書の言葉です。
「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけてくださるからです。」(ペトロの手紙一 5:7)
この言葉に出会った時、全宇宙の創造者である神様は、わたしの全部をお任せできる方、どんな時もわたしを支えてくださる方であることを再発見しました。
いつも肩に力が入り、身構えていたわたしですが、こんなわたしのことさえ心にかけてくださることを知り、新たな人生を歩み出す力となりました。
★さあ、すぐに開きましょう。
聖書は、永遠に変わることのない「神のことば」の宝庫であり、人生に起こるすべての問題への解答にあふれています。わたしたちは困難な時代に生きていますが、美しく澄んだ聖書の言葉の中には、必ず素晴らしい宝物を発見することができるでしょう。
エイブラハム・リンカーンもこう言いました。「聖書はこれまでに神がくださった最上の贈り物であるとわたしは信じている」と。もしあなたが、神様からのすばらしい贈り物を一度も開かずに一生涯を終えてしまうとしたら、それはあまりにももったいないことです。
あなたも教会にいらっしゃり、神様からの贈り物・聖書を一緒に開いてみませんか。
「あなた(神)の御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯(ともしび)。」(詩編119:105)
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| あなたの価値は? ぶどう樹 No.628 |
「わたしの目にあなたは価高く貴い。」(イザヤ書43:4)
お金でははかることのできない、人間の価値とは何でしょうか?
●大リーガーの契約金
日本のプロ野球や大リーグのニュースがテレビ新聞などをにぎわしています。最近では大リーグで活躍する日本人選手が多くあり、テレビニュースでも大リーグのほうが先に取り上げられており、ちょっと日本のプロ野球がさびしくなっている感があります。
それはさておき、大リーグに移籍する野球選手の契約金、移籍金の莫大さには、本当に驚かされます。今レッドソックスで活躍している松坂大輔は移籍金だけで六十億円、年俸(六年間)を合わせれば、百三十億円だったと聞いています。
この値段の高さは、その野球選手としての価値を表すものなのでしょう。それに比べて、「自分の給料は……」とため息をもらしている人はいないでしょうか。
●わたしたちの値段
それでは、わたしたちの値段、わたしたちの価値はどれほどでしょうか。それはわたしたちの給料に比例しているのでしょうか。そうではありません。
聖書はこのように言っています。「わたしの目にあなたは価高く、貴い。」(イザヤ書43:4)
神様は、わたしたち一人ひとりの人間の価値は、この世のお金でははかることのできないほど貴いものである、と言っているのです。
また、「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。」(ヨハネの手紙一3:16)とも記されています。
なぜ神様は、わたしたちを価高いものである、と言われ、イエス・キリストが命を捨ててくださるほど大切な存在だ、と言われるのでしょうか。
それは、創世記に「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」(創世記1:27)と記されているように、わたしたち人間が、神の愛の対象として、神に似たものとして創造されているからです。そこに、人間の限りない価値と尊厳があります。
神様にとって、わたしたち一人ひとりは、かけがえのない存在なのです。
その大切なわたしたち人間が、罪によって、神のもとをはなれ、永遠の滅びに向かうことになってしまったのを見て、神が人となられた方、イエス・キリストは、わたしたちを救い、永遠の命を与えるために、ご自分の命を犠牲とされたのです。
「人の命は地球よりも重い」という言葉がありますが、神様が、わたしたちを評価してくださった値段は、それよりも大きく、神様ご自身の命に等しい値段でした。
●神様はを知ろう
わたしたちをこれほど高く評価してくださっている神様について、あなたも知りたいと思われませんか。
ぜひ教会を訪れてください。そこには、あなたが、ご自分のもとに来るのを、両手を広げて待っておられる神様、あなたのために命を捨ててくださったイエス・キリストがおられます。
次の日曜礼拝、教会を訪れ、勇気を出して、その扉を開けてください。
キリストの値段は?
聖書中には、イエス・キリストが弟子によって売り渡されたという記事がでています。
皆さんもご存じの、弟子でありながらキリストのを裏切ったイスカリオテのユダは、キリストを引き渡すために、こんな取引をしています。
「イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、『あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか』と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。そのときから、ユダはイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。」(マタイによる福音書26:14~16)
「銀貨三十枚」、これがキリストにつけられた値段であるということができます。
それでは「銀貨三十枚」とは、どのぐらいの価値なのでしょうか。今のお金に単純に換算することは、難しいのですが、50万から多くても100万円ぐらいの間だと思います。そして、それは当時の奴隷の値段だと言われています。
皆さんは、この値段を高いと思われますか。安いと思われますか。神が人となられたイエス・キリストの値段が、高くとも100万円とは、あまりにも安すぎるのではないでしょうか。
それではあなたは、このイエス・キリストにどのような値段をつけられるのでしょう。
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| ぶどう樹 No.629 |
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| ぶどう樹 No.630 |
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| ぶどう樹 No.631 |
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| ぶどう樹 No.632 |
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| ぶどう樹 No.633 |
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| ぶどう樹 No.634 |
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