ぶどう樹 〜よろこびの知らせ〜 (No.599-610)
  愛のかけはし ぶどう樹 No.599

 聖イエス会創立60周年

 1946年、戦後間もない日本で、「聖イエス会」と名付けられた小さなキリスト教団が産声を上げました。
 以来60年、聖イエス会は神様の豊かな恵みの中で、北海道から沖縄まで103の教会を持つまでに成長し、活動の輪は、アジア、ヨーロッパ、アメリカにまで広がっています。それは、創立者・大槻武二牧師(1906〜2004)を通して示された神への信仰と壮大なビジョンによって実現してきました。


 誕生

 大槻武二牧師は1938年1月9日、中国・瀋陽で、鮮やかな神との出会いを体験しました。その時から大槻牧師は、真のイエス・キリストの命に満たされて、力強くキリストの福音を宣べ伝えました。そして、その説教と祈りを通じて、多くの人が病気をいやされ、真の神を信じるようになりました。
 また大槻牧師は、この神との出会いの中で、世界平和の鍵である「エルサレムの平和のために祈る」というビジョンを受けました。
 それから8年後の1946年1月5日、神は大槻牧師に教会を作るようにと導かれました。それは、日本の人々の荒廃した心に愛と希望の種であるキリストの福音を伝える教会、イスラエルを通じて全世界が祝福を受けるという聖書の御言葉の実現を祈る教会です。
 こうして「聖イエス会」が誕生しました。


 神の御名を呼ぶ信仰生活

 聖イエス会が最も大切にしていることは「神の御名」を呼ぶ信仰生活にあります。聖書において神は「我は全能の神なり」(創世記 17:1参照)「我は主なり」(イザヤ書 43:13参照)と、御名によってご自身をあらわされます。
この神の御名を呼び求めるとき、わたしたちは神と出会い、神の無限の命、人をつくり変える愛、そして、病気をいやすダイナミックな力を体験することができるのです。
 この「御名の福音」こそ、聖書に忠実な教えであり、聖書の中心テーマです。
 「わたしの名の唱えられるすべての場所において、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する」(出エジプト記 20:24)と聖書にあるように、いつでもどこでも、神の御名を呼ぶ時に神はあなたの近くにいて、あなたと出会ってくださるのです。


 平和を実現する

 また、聖書は「エルサレムの平和を求めよう」(詩編 122:6)と教えています。聖イエス会では、この聖書の御言葉にしたがって、エルサレムの平和を祈り、聖書の国イスラエルとの交流を通して、世界平和の実現のために働いています。全国の聖歌隊のメンバーから選抜された「黎明合唱団」は、ヨーロッパ、イスラエル、アメリカ、カナダでコンサートを開き、人々に慰めと、希望を与え、感動の輪が広がっています。
 1971年、第一回演奏旅行の時にはイスラエルの町「ナタニヤ」で合唱団と『アンネの日記』の著者、アンネ・フランクの父オットー・フランク氏との、全く予期しない感動的な出会いがありました。そして、そのオットー氏から送られてきた「アンネの形見」と名付けられた可憐なバラは兵庫県西宮市の聖イエス会「アンネのバラの教会」を始め、日本各地で根付き平和のシンボルとして美しい花を咲かせています。
 また、広島県福山市の日本で最初にできた「ホロコースト記念館」には第二次世界大戦時のヨーロッパにおけるユダヤ人迫害ホロコーストの貴重な資料が展示されています。
 そして来館された多くの人は、この大きな悲劇から平和がどれほど大切なものであるかを学び、平和を作り出すために何かをしたいとの思いに満たされます。現在、2007年完成を目指して、新しいホロコースト記念館建設計画が進行中です。小さな平和のともし火が、大きな炎となることを期待しています。


 愛のかけはし

 聖イエス会のメンバーは、日々聖書のみ言葉を学び、神の御名を呼びつつ、神と共に歩む生活を心がけています。そして、世界平和の鍵であるエルサレムの平和を求める祈りを絶やすことなく、神と人、人と人との間に愛の橋をかけるという大きな希望にあふれています。
 あなたも聖イエス会の教会にいらっしゃいませんか。そこで、あなたは生ける神と出会い、確かな救いを得ることができるでしょう。また、神への信仰と未来への希望、そして変わらない愛を見いだすことができるでしょう。
 「信仰と、希望と、愛、この3つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(コリントの信徒への手紙一 13:13)


 全能の神 ぶどう樹 No.600
「わたしは全能の神である。」 (聖書 創世記17:1)
「全宇宙の創造者である神、神は言われた。『光あれ。』 こうして、光があった。」 (聖書 創世記1:3)

 よく知られている、聖書の冒頭の部分の御言葉です。この御言葉に続いて、次々と神がその言葉によって、全世界・全宇宙を創造されていく様子が聖書に記されています。神はただ一言葉を持って全世界・全宇宙を創造されたのです。
 わたしたち人間、全世界・全宇宙を創造された神は、できないことは何もない全能の神です。
 神ご自身もご自分のことを「わたしは全能の神である」(同 17・1)と宣言されています。聖書の中には神が全能であることを証しする奇跡の数々が満ちています。
 また、それらはただ過去の物語ではなく、今も全能の神は働き、多くの奇跡が教会で起きているのです。

 現代も働く神の力

 十年ほど前、卵巣ガンと宣告された一人の婦人がおられました。病気自体からくる痛みや苦しみはもちろん、死に対する不安、残される子どもたちへの心配と焦り、そして何より自分の心の内にあった、人を愛せない冷たい心、人を許せない罪の心、これらが心の重荷となってその婦人を苦しめました。そのような中から、彼女は毎日、神の御名を「我は主なり」「我は全能の神なり」と呼びながら、すべてを解決してくださる全能の神を求めていきました。
そして、必死の思いで出席した教会の集会で、「我は主なり」との神の御名と共に神の全能の力がこの婦人に臨みました。その瞬間痛みが薄らいで全身がスーッと軽くなり、体中が大きな平安と喜びに満たされるのを感じられたとのことです。そしてその日は自分で歩いて家に帰ることができました。全能の神は彼女のガンを癒し、同時に死の恐怖と罪の重荷からも解放してくださったのです。その婦人は、以後再発もなく今も元気にしておられます。
 このほかにも、悪性リンパ腫が祈りによって消えてしまった方、祈りのうちにパニック障害から回復し、今は喜びにあふれて社会生活を送っておられる方もおられます。
 全能の神は今も生きて働いておられます。そして、その全能の力を、ご自分を信じる者に対して現し、病気から、心の苦しみから、わたしたちを救ってくださいます。

 全能の神の力を引き出す

 神の全能の力を引き出すのには秘訣があります。
 聖書の中で、全能の神であるイエス・キリストによる奇跡を体験した人々に、キリストがこのように語っています。「あなたの信仰があなたを救った。」(ルカによる福音書 8・48)
 このキリストの言葉は、神の全能の力を引き出すのに大切なのは、イエス・キリストを全能の神と信じる信仰だ、ということを示しています。全宇宙を創造された神に不可能はありません。「神にできないことは何一つない」(同1・37)と信じる信仰です。
 そして、その神の御名「我は全能の神なり」「我は主なり」を、あの婦人のように呼び求めることです。神は約束してくださっています。「主(神)の名を呼び求める者はだれでも救われる」(ローマの信徒への手紙 10・13)と。
 今、肉体の病気や心に重荷を抱えて悩み苦しんでいる方がおられるでしょうか。あなたの問題を、全能の神、キリストに委ねてください。
 神は言われます。
 「わたしは全能の神である。」
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。」(マタイによる福音書 11・28)
 「わたしはあなたをいやす主である。」(出エジプト記 15・26)
 神はその全能の力であなたを救うことができます。さあ、全能の神が今も働いている教会を訪ねてください。

 青春の詩 ぶどう樹 No.601

「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。」  (聖書 ルカによる福音書 15:4-6)

 青春の詩
 「青春とは人生のある期間ではなく、
 心の持ち方を言う。
 ……………
 年を重ねただけで人は老いない。
 理想を失うとき初めて老いる。」
       (訳・作山宗久『青春とは、心の若さである。』角川書店から)

 幻の詩人と言われるサムエル・ウルマン(1840〜1924 ドイツ生まれのユダヤ人)の詩の一節です。
この詩は、ダグラス・マッカーサー(日本占領軍司令官)を通して日本に知られるようになり、松下幸之助氏(松下電器創業者)をはじめ多くの人々に愛好され、勇気と希望を与えてきました。
 この詩は、理想や希望に燃えて生きているならば、人は年齢に関係なく、青春の輝きを持って生きることができることをわたしたちに教えてくれます。
 ところが最近、青春真っ只中で、人生で最も輝いていなければならないはずの若者でさえ、将来に対する夢や希望を持つことができず、学ぶことも働くことも、職業訓練も受けない「ニート」と呼ばれる若者が増えていると聞きます。また、多くの中・高年の自殺者がいることを聞くと心が痛みます。

  人生に輝きを与えるもの


 ここでもう一つ、聖書の示す青春の詩をご紹介しましょう。
 「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。
 苦しみの日々が来ないうちに。
 『年を重ねることに喜びはない』と
 言う年齢にならないうちに。」(コヘレトの言葉12:1)

 この聖書の御言葉はわたしたちの人生に輝きを与えるものが何であるかを、はっきりと示しています。あなたの人生を、年齢に関係なく、輝いた青春とするために、「あなたの創造主である神に心を留めなさい」と勧めているのです。
 さらに、先ほどのウルマンもその詩の後半にこのような言葉を残しています。
 「人から神から美・希望・よろこび・勇気・力の霊感を受ける限り君は若い。」
 「神に心をとめること、神を知ること」それは、わたしたちの人生の基盤であり、生きる目標を与えるものであり、さらには、何を第一としなければならないかという価値観の基準ともなるべきものです。それこそはわたしたちの一度限りの人生に輝きを与えるものです。

 今が青春

 かつてのわたしは、受験に失敗し、落ちこぼれの烙印を負い、青春の名の下に自分自身をもてあましていましたが、神との出会いを通して、神と共に歩む、輝く人生へと導かれました。わたしにとっては全生涯が青春です。
 人生に輝きを取り戻すために、青春を取り戻すために必要なものは多くはありません。それはただ一つ、神ご自身を知ることです。そして、それは単に知識として神について知るのではなく、今を生きている神と出会うことです。
 あなたは、神を知っていますか。神との出会いを体験されたでしょうか。
 創造主である神に心を留め、その神との出会いを求めて、神の御名を「神は愛なり!」と呼ぶならば、だれでも神との出会いを体験することができます。そして、今の年齢に関係なく、「今が青春」と叫ぶことができるでしょう。
 「神は愛なり」


 復活の希望 ぶどう樹 No.602

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」−イエス・キリスト− (聖書 ヨハネによる福音書 11:25)

 種の神秘

 寒かった冬も終わり、花が咲き香る春を迎えました。どこを見ても、美しい花々が咲いています。桜前線も北上し各地でお花見の宴が開かれることでしょう。
 桜といえば冬の間はどんな状態だったのでしょう。まるで枯れ木のようにみすぼらしく、生きているのか、死んでいるのかさえわかりませんでした。しかし、春になれば必ず芽を出し、花を咲かせるのです。なんと不思議なことでしょうか。
 それは、小さな花の種を見ても同じです。生きているのか死んでいるのかわからないような小さな種でも、土の中にまかれるなら芽を出し成長して花が咲きます。一粒の種の中に、芽や茎や葉や花になるすべての要素が詰め込まれているのです。
 また、植物の種は何年経っても芽を出すことができます。有名な大賀蓮は二千年前の古代蓮の種として発見されましたが、二千年の眠りから目覚めて現代に復活し、日本の各地で香りを放っています。植物の種には何と神秘的な命が宿っていることでしょうか。

 神の種
 
 それでは、人間の命はどうでしょうか。日本は平均寿命が80歳を超えて、世界でも有数の長寿国だと聞いています。しかし、どんなに長生きしたとしても人間の寿命は120歳位だと言われています。健康で長寿なのはすばらしいことだと思いますが、永遠に生きることはできません。人間は寿命が尽きた時、死と共に無に帰してしまうのでしょうか。
 この人間の死と命の問題に解答を出されたのがイエス・キリストです。
イエス・キリストはこのように宣言されました。
 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(ヨハネによる福音書 11:25)
 イエス・キリストが十字架で死んだことは良く知られています。しかし、「わたしは復活であり、命である」と宣言された神ご自身であるキリストは、三日目に死の中から復活されました。
 さらにイエスは言われました。「わたしを信じる者は、死んでも生きる。」
 キリストご自身だけではなく、永遠の命そのものである神、キリストを信じ心に宿す時、わたしたちも復活し永遠に生きることができると言われるのです。
 聖書では、この永遠の命、キリストご自身のことを「神の種」と呼んでいます。

 復活の希望

 永遠の命、神であるキリストを心に宿すためにはどうすればいいのでしょうか。
 聖書にはっきりと記されています。
 「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」(ヨハネによる福音書 20:31)
 ここでイエスの名とは、永遠の命、復活の命を持つ神ご自身であり「神の種」のことです。
だれでもイエス・キリストを自分の救い主、真の神であると信じて、その名を心から呼び求めるなら永遠の命、神の種を持つことができます。その約束は、きょうも変わりありません。
 もし心に「神の種」を持つなら、二千年前の古代蓮でさえ復活するのですから、わたしたち人間も必ず復活することができます。なぜなら、その中に永遠の命があるからです。
 さあ、あなたも死の中から復活されたイエスと共に永遠の命によみがえるために、キリストを神、救い主と信じ、その御名「我は復活(よみがえり)なり命なり」を心から呼びましょう。
 「我は復活なり命なり!」

 人生は宝さがし ぶどう樹 No.603

「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。」 (聖書 コリントの信徒への手紙二 4:7)

 高価な真珠

 「商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」(マタイによる福音書 13・45〜46)
 これは、聖書の有名な御言葉であり、人間が価値あるものを探し求める存在であることをよく表していると思います。
 そう言えば、書店に行くと人生についての本が大きなスペースを占めていますが、これも人々が価値あるものを探し求めている証拠だと思います。
 人生は、「価値ある宝」を探し求める旅路のようなものです。真に価値のある宝を見つけ、手にすることができた人は、なんと幸いでしょう。

 生けるキリスト
 
 さて、二十世紀で「最もキリストに似た人物」と言われたサンダー・シングという人のエピソードを紹介しましょう。
 彼は、無抵抗主義を貫いたガンジー、ベンガルの詩人タゴール、愛の使者マザー・テレサと並んで、インドの偉人の一人です。
 あるとき、彼は次のような質問を受けました。
 「厳格なヒンズー教徒として生まれたあなたが、キリスト教徒になったのには、理由があるはずです。ヒンズー教の中になくて、キリスト教にあったものとは一体何ですか。」
 それに対して、サンダー・シングはただ一言、「それは生けるキリストです」と即座に答えました。質問者が、「いや、キリスト教にキリストがあるのは当然です。お尋ねしたのは、あなたが発見したキリスト教独自の思想とは何か、ということなのです」と言いますと、「それは生けるキリストです」と三度まで答えたと言います。
 彼にとって、哲学や思想ではなく、生けるキリストこそ何にも代えることのできない宝だったのです。

 偉大な力
 
 使徒パウロも、その手紙にこう記しています。
 「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」(フィリピの信徒への手紙 3・8)
パウロにとっても「生けるキリスト」は他のどのような宝にもまして、すばらしい宝でした。さらにパウロは次のようにも言っています。
 「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」(コリントの信徒への手紙二 4・7)
 キリストの弟子たちは、土の器のようにもろく、壊れやすい人間でしたが、十字架で死なれ、三日目に死から復活された生けるキリストに出会い、この「生けるキリスト」を自分たちの内に持った時、キリストのように人々を愛し、命の危険をも顧みず、キリストを伝えていく偉大な使徒と変えられたのです。

 キリストの約束
 
 サンダー・シングやパウロ、弟子たちが見つけたこの宝、「生けるキリスト」は、あなたにとってもなくてはならない、また他のものに代えることのできない真に価値ある宝です。そして、このキリストは今も生きておられ、ご自分を探し求める者に出会ってくださいます。
 わたしも、「価値ある宝」を探し求めて、生けるキリストと出会い心に迎えました。わたしは声を大にして言います。「わたしも、このような宝を土の器に納めています」と。
 あなたもこのお方に出会うことができます。
 「求めなさい。そうすれば、与えられる。…門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(マタイによる福音書7・7)
 これはイエス・キリストの約束です。
 このすばらしい宝を求めて、あなたもぜひ教会の門をたたいてください。

 お父さんはナビ ぶどう樹 No.604

「わたしは道であり、真理であり、命である。」― イエス・キリスト ― (聖書 ヨハネによる福音書 14:6)

 道に迷ったらどうする?

 ある本にこんなことが書かれていました。
 「道に迷ったとき、女性ならすぐ車を停めて道をたずねるだろう。だが男性は、そのへんをむなしく何時間でも走り回って、『ほほう、ここを通ってもあそこに出られるのか!』『だいたいこのあたりなんだが…』『ここは見覚えがあるぞ!』などと口走る。」
 身に覚えのあるお父さん、いらっしゃいませんか? どうも男性は、道をたずねることをしたがらないようです。

 父親は一家のナビ

 現在は「カーナビ」が普及し、大変便利になりました。
  「若者を歩むべき道の初めに教育せよ。年老いてもそこからそれることがないであろう。」(箴言 22:6)
 お父さんは一家を導く「ナビ」であるということができると思います。
 けれども、カーナビが目的地を設定しなければルートガイドをしないように、お父さんが自分の人生の目的地を設定しなければ、子どもに「歩むべき道」を示すことはできず、一家は路頭に迷うことにもなりかねません。
          
 あなたの人生の目的地はどこですか?
 道に迷っていませんか?
 道をたずねなくてだいじょうぶですか?

 
 道をたずねた人

 イエス・キリストの弟子のひとりであるトマスという人が、道をイエスに尋ねました。
 「『主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。』イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父(神)のもとに行くことができない。』」(ヨハネによる福音書 14・5-6)
 イエスは、ご自分こそが「神にいたる道」であると語られました。
 そしてさらに、「わたしを見た者は、父を見たのだ。」(同 14・9)「わたしと父とは一つである」(同 10・30)と語られました。
 つまり、ご自身が「人生の目的地」そのもの、神であることを示されたのです。

 人生の目的地

 お父さんがこの人生の目的地であるキリスト、そこに至る道でもあるキリストを神であり、救い主であると信じ、心にインプットするならば、愛する家族は、路頭に迷うことなく「歩むべき道」を正しく歩み、目的地に到着できます。

 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」(使徒言行録 16・31)

 永遠(とこしえ)の愛 ぶどう樹 No.605

「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ」 (聖書 エレミヤ書 31:3)

 永遠の愛

 「永遠の愛をもって、あなたを愛します。」
 なんと美しい言葉でしょう。すべての人が憧れ、求め続ける理想の愛、それは「永遠の愛」です。
 人はこの「永遠の愛」を、幼いときは母に求め、成長してからは、恋人や、結婚相手に求めます。
 人生の心の旅路は、「永遠の愛」への旅であり、ここに幸せを見いだそうと、だれもが努力をおしみません。愛がなければ、世界は凍りつき、永久に冬のままです。愛こそは人間の最高の理念、理想、願望です。
あなたは、神がこの「永遠の愛」を、人に誓っておられるのを知っていますか。
 
        
 結婚の誓い

 キリスト教の結婚式は、新郎新婦が互いに手を取り合って、次のように誓います。「幸せな時も、苦しみの時も、豊かな時も、貧しい時も、健康な時も、病気の時も、あなたを愛し、あなたを守ります」と。それは、二人にどのような変化が生じても、互いに見捨てず、変わらず、忘れず、離れない愛。死に至るまで、互いのために生きる愛です。
 キリスト教の結婚式での誓約は、神が人を愛される愛にならおうとしたものなのです。神は花婿が花嫁を愛するように、人を愛されます。それは人が、崇高な「神のかたち、神の似姿」に、創造されているからです。(創世記1:26〜27)
 
 
 愛、大切に思う心

 今、日常的につかわれる愛は「好き」「気に入った」「好みに合う」気持ちだと思いますが、神の愛は、聖書で「アガペー」と言い、このような単なる感情表現ではありません。
 キリスト教が初めて日本に伝えられた時(1549年)、ギリシア語の「アガペー」という聖書の言葉を、ふさわしい日本語に訳することが大変困難でした。なぜなら、聖書が伝えるキリストの愛は、どんな言葉も当てはまらなかったからです。
 そこで、最初にキリストの愛を知った日本人(キリシタン)は、その言葉を「御大切」と訳しました。相手をなによりも大切に思う、かけがえのない存在だと思う、自分の命のように思う、ということです。

 十字架の愛

 まことにキリストの愛は、自分の命よりも相手を大切に思う心でした。この「アガペー」、「永遠の愛」は、イエス・キリストの十字架の死によって実現し、この愛はすべての人に向かって、今日も生きているのです。花婿であるキリストは、わたしたちを花嫁のように愛し、罪から清め、美しい心に変えて、天国へ迎えてくださいます。
 新約聖書は、十字架につけられたキリストを、「神は愛なり」と示し、その栄光を賛美しています。
 「神は愛なり!」

 東洋の使徒 ザビエルの選んだ道 ぶどう樹 No.606

「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。」 (聖書 マタイによる福音書 16:26)

 ザビエル生誕五百年

 今年は、日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルが誕生して五百年になります。
 彼は、1506年4月7日、スペイン北部、フランスとの境界線ピレネー山脈のふもとにある、バスク人最後の独立国、ナバラ王国の中でも有名なザビエル城の城主ファンの子として生まれました。
 成長し青年となった19才の夏彼は没落したザビエル家の復興という、一族の期待を一身に受けて、パリ大学のバルバラ学院に入学しました。

 人生を変えた運命の出会い
 
 そこで同室となった、当時38才の軍人あがりの学生、後にザビエルが偉大な師と仰ぎ、また同志となるイグナチオ・ロヨラ(イエズス会の創立者)との運命的な出会いを体験します。
 「ザビエルよ、たとえあなたが全世界を自分のものにできたとしても、自分の魂を滅ぼしてしまったら、何の喜びがあろうか?」
 ロヨラのこの問いかけが、彼の心を火の矢のように貫きました。
死をもって終わるこの世の栄達の空しさを知った彼は、やがて永遠の命に渇き、光を求めて祈り始めました。ザビエル27才の夏のことでした。そして彼はついにしロヨラの前にひざまずき、次のように叫びました。
 「わたしの魂の父よ! わたしの人生を、もっとも価値ある、すばらしい崇高な道へと連れて行ってください!」と。
         
 
 東洋の果て、日本へ

 ロヨラとの出会いによって、神への道をまっしぐらに進む決意をしたザビエルは故郷を去り、宣教師となりインドのゴアを中心に、東南アジアの島々を巡り、キリストの救いと愛を宣べ伝えていきました。
 やがて彼はマラッカでヤジローという名の日本人と出会います。この神の摂理とも思える出会いが、彼を東洋の果てのわたしたちの国、日本に向かわせました。
 そして、1549年8月15日、ザビエルは鹿児島に上陸、第一歩を記し以後2年3か月余りの間、日本を行き巡り、神の言葉と福音を伝えました。
 当時の日本人は、キリストの愛と救いを伝えるためだけに、遙かな遠い国から渡来したザビエルに何を見たのでしょうか。
 また、ザビエルは当時の日本を見、日本人と出会って何を思い、何を感じたのでしょうか。
 そして、もしザビエルが今日の日本を見、あなたと出会ったなら、何を思い、どのように感じることでしょう。

 わたしの心に生きるキリスト ぶどう樹 No.607

「キリストがわたしの内に生きておられるのです。」 (聖書 ガラテヤの信徒への手紙 2:19-20)

 ガラスの中のモーツァルト

 モーツァルト生誕250周年の今年、各地で様々な催しが開かれています。
 わたしがモーツァルトで思い起こすのは、彼の名曲と共に、学生時代に通った喫茶店「モーツァルト」と、バイオリニスト、ジャック・ティボー(一八八〇〜一九五三・フランス)の回想録『ヴァイオリンは語る』(粟津則雄訳・白水社刊)に登場する不思議なモーツァルトの姿です。この回想録の中に彼の師、マルタン・マルシックとの会話が記されています。
 彼が十三歳の時、マルシックと最初に出会った日にマルシックがティボーに「きみの好きな作曲家は?」とたずねると、ティボーは即座に「モーツァルトです」と答えました。そして、おもむろに窓を指差したのです。
 「あそこにモーツァルトがいるんです……あのガラスの中に……きっと先生にも見えますよ。ぼくにだって見えるんだから。ぼくが会おうと言うたびに、彼はあそこにやって来るんです。……今じゃぼく、彼がいなけりゃ生きられないほどなんですよ!」
 すると、マルシックは「モーツァルトに対するきみの愛情が、すみずみまでわかった……モーツァルトは、きみが、全力で研究し勉強すべき作曲家だよ。……そして、きみが、もはやガラスの中じゃなくて、きみ自身のうちにモーツァルトを見いだすようになったとき、きみ自身がモーツァルトになるんだよ」と助言しました。
 この言葉を心に刻んで精進したティボーは、すばらしい演奏家となり、後に、チェロのカザルス、ピアノのコルトーと組んだトリオ、「カザルストリオ」は、史上最高のトリオと称されました。若き日に、このような師に出会い、人生の目的、目標を得ることのできる人はなんと幸いでしょうか。

 心の中に住むキリスト

 実はわたしも、青春時代にこのティボーと同じような経験をしました。
 わたしが、生涯の師と仰ぐ大槻武二牧師(聖イエス会創立者)は、このように言われました。
 「真の神、イエス・キリストを信じるだけでは十分ではありません。神の御名を呼び求めることによって、キリストを心に宿すのです。その時、人間はキリストの命に生かされ、自分自身のうちに、キリストを見るでしょう。
 『わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。』(ガラテヤの信徒への手紙 2・19〜20)との聖書の御言葉こそ、キリスト教の真髄です」と。
 多くの人は、神様が天のかなたにおられると思っていらっしゃるのではないでしょうか。
 キリストを外に見ている間は、ティボーがモーツァルトを窓ガラスに見ているように、まだ、十分ではありません。
しかし、「心の中に住むキリスト」を体験する時、キリストがその人の力となり、愛となり、命となり、今を生きてくださるのです。
 
 主の御名を呼びましょう

 では、どうすればキリストを心の中にお迎えすることができるでしょうか。
 ある教会学校で、キリストを心に宿すということを聞いた一人の生徒が、びっくりして叫びました。「イエス様がぼくの心に宿られたら、心が爆発してしまうよ!」
 その子は、ただ単純に大人の大きなイエス様の体を想像して、そんなことは不可能だと思ったのです。しかし、不可能を可能にする方法をキリストの言葉の中に発見します。
 キリストは十字架につけられる前の晩、弟子たちと共に最後の晩餐をとられた後、次のように御父に祈られました。
 「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」(ヨハネによる福音書 17・26)
 十字架上で死なれ、復活されたキリストは、信じる人の心の内に「我は主なり」との御名によって来てくださるのです。
 ここまでお読みくださった皆様、どうぞ次の言葉で祈ってみてください。
 「主よ、来てください。御名を呼ぶわたしの心に来てください。」
 「我は主なり!」

 神の時計 ぶどう樹 No.608

「その日、主(キリスト)は御足をもってエルサレムの東にあるオリーブ山の上に立たれる。」 (聖書 ゼカリヤ書 14:4)

 イスラエルという国

 一ヶ月にわたるイスラエルとヒズボラとの紛争は、双方が国連の停戦決議を受け入れましたが、依然緊張状態にあります。
 近年、世界のニュースにしばしばイスラエルの名が登場しますが、イスラエルという国はどのような国なのでしょうか。
 現在のイスラエルは、一九四八年に、英国の委任統治下にあったパレスチナの土地を分割し、一方にユダヤ人国家を、他方にアラブ人国家をつくるという国連の分割案を、ユダヤ人側が受け入れ建国されました。
 国の面積は日本の四国くらいであり、人口も六百万人ほどの小さな国です。
 この小さな国が、なぜしばしば世界の大きなニュースとなるのでしょうか。
 ユダヤ人国家は紀元七〇年に、ローマ帝国に滅ぼされ、世界に離散させられるまで、千年以上も現在と同じ場所に存在していました。滅亡後も、一部のユダヤ人はこの地に二千年間住み続けてきました。
 ロシアにおけるポグロム(ユダヤ人虐殺)をはじめ、世界のいたるところでユダヤ人の迫害が起こり、ユダヤ人国家の再建の必要性が叫ばれてきましたが、ナチスによるホロコースト(ユダヤ人絶滅計画)がそれを決定的なものとしました。
 そして、一九四八年に父祖の地に、二千年ぶりに国が再建されたのです。世界の歴史の中にこのような例をほかに見ることはできません。
 イスラエルは国連の分割案を受け入れましたが、アラブ側はこれに反対し戦争となり、それ以来六十年近く紛争が継続してきました。
 現在では、アラブの国々の中にもイスラエルの存在を認める国が増えてきましたが、それを認めないハマスやヒズボラなど、一部の過激派との間の戦いがなお続いているのです。

 聖書の預言

 政治的な問題や論争はさておき、わたしたちがイスラエルに注目するのは、イスラエル国家の再建やエルサレム問題、またイスラエルが世界情勢にどのような影響を与えるかなど、すべてが聖書に預言されているという点です。
 一例を挙げると、旧約聖書のゼカリヤ書(紀元前六世紀頃)には、終末時代に次のようなことが起こることが預言されています。
 「その日、わたしはエルサレムをあらゆる民にとって重い石とする。それを持ち上げようとする者は皆、深い傷を負う。地のあらゆる国々が集まり、エルサレムに立ち向かう。」(ゼカリヤ書 12:3)
 「人の三分の二は死に絶え、三分の一が残る。」(同 13・8)
 「その日、主は御足をもって エルサレムの東にあるオリーブ山の上に立たれる。」(同 14:4)
 以上の預言から、終末時代の特徴として次のことが挙げられます。

 1.ユダヤ人国家が父祖の地に再建されていること。
 2.かつて、ユダヤ人国家の首都であり、ユダヤ教の神殿が存在したエルサレムが、イスラエルの手に帰っていること。
 3.世界のほとんどの国が、再びエルサレムを、イスラエルの手から取り上げようとして攻撃をしかけるが、かえって致命的な敗北を喫すること。
 4.エルサレム問題が世界戦争の発火点となり、パレスチナ周辺の人口の三分の二が失われること。
 5.その時に、メシア(キリスト)が介入され、全世界に平和がもたらされること。

 以上のうち、1と2はすでに実現しています。聖書の預言は、すべて世界の歴史の中に実現してきているので、以下の預言も必ず実現するでしょう。
         
 
 イスラエルは神の時計

 わたしたちが生きている今、歴史はどのような時点にさしかかっているのか、今後、世界にどのようなことが起こるのか。
 それは、神の時計といわれるイスラエルの動きに注目し、神の時刻表である聖書の預言を学ぶことによってのみ理解することができるのです。
 確かに、世界は歴史の終末に向かって暴走しています。国連も、大国の力もこれにストップをかけることはできません。
 人類の唯一の希望は、メシア(キリスト)の再臨にあります。これを実現するために、あなたも祈り、働く人になりましょう。

 神のふところに帰る ぶどう樹 No.609

「父がその子を憐れむように、主(神)は主を畏れる人を憐れんでくださる。」 (聖書 詩編 103:13)

 レンブラントと放蕩息子

 今年7月15日は、オランダの画家レンブラント・ファン・レイン(1606〜1669)の生誕四百年に当たっていました。
 「光と影の画家」と呼ばれるレンブラントは、その六十三年の生涯で画家としての富と名声を手に入れた「栄光の時代」と、やがてすべてを失ってゆく「闇(影)の時代」を経験しました
 その彼が、晩年に描いたのが「放蕩息子の帰還」でした。それは、聖書の中でイエス・キリストが語られたたとえ話を題材にしており、レンブラントが生涯の最後に見いだしたものが、何であるかが表現されているようです。まず、その物語をご紹介しましょう。

 ルカによる福音書15:11〜24
 
 「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。」(日本聖書協会新共同訳聖書)

 慰めの発見

 しかし、ダビデは「死の陰の谷」をたどりながら、共にいてくださるお方があることを発見したのです。「わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」
 災いが無いと言っているのではありません。暗き谷間をたどる時も、神さまが共にいてくださると言っているのです。それは何と大きな慰めだったでしょうか。
 ダビデは歌います。「あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」と。鞭は羊飼いが外敵を蹴散らすために使う道具であり、杖は羊を訓練する道具であると共に、大切な羊たちを一匹一匹数えるための道具でした。

 
 今、神のもとへ

 慈愛に満ちた父の姿は、わたしたちすべての者の造り主である、愛の神の姿です。また、放蕩息子の姿は、神から離れて生きているわたしたち人間の姿です。そして、父のもとに帰った息子の姿は、わたしたちが神のもとに帰る時、そこで、赦されて、魂が安らぎ憩うことができることを教えてくれます。これが、レンブラントが光と影の人生を体験した末に見つけたものではないでしょうか。
 
 「主(神)はわたしたちを
  罪に応じてあしらわれることなく
  わたしたちの悪に従って報いられることもない。
  ………………
  父がその子を憐れむように
  主は主を畏れる人を憐れんでくださる。」(詩編103:10、13)

 この愛の神は、放蕩息子を抱くその腕を、今もわたしたちに向けて、伸ばし続けて待っておられます。わたしたちはその人生の途上で、病気・孤独など、さまざまな悩み苦しみに出会うでしょう。
 そのような時、いつでも、どこからでも、神もとに帰るなら、愛の神は、わたしたちを迎え、同じ愛の御腕で抱き締めてくださるでしょう。そして、そこに問題の解決と魂の平安を見いだすでしょう。
 さあ今、神のもとへ! 「神は愛なり!」

 家畜小屋が聖地となった日 ぶどう樹 No.610

「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」 (聖書 マタイによる福音書 1:21)

 家畜小屋に生まれた神の御子

  今年もクリスマスシーズンを迎え、街には、きれいな飾りつけが行われています。
  今では世界中で盛大に祝われているクリスマスですが、その始まりは小さな村のはずれから始まったのです。
  聖書を見ると、最初のクリスマス記事の一節に、「マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」(ルカによる福音書 2:6)とあります。
  神の御子、イエス・キリストはなんと家畜小屋にお生まれになったのです。
  皆さんは「家畜小屋」と聞いて、何を連想するでしょうか。動物好きな人には申し訳ありませんが、決してそこは清潔な場所ではないはずです。どうして、神の御子がこのような汚い場所にお生まれになったのでしょうか。

 人間の汚れた心

 今、家畜小屋は汚い場所であるといいましたが、実は、もっと汚いところがあるのです。それはわたしたちの心です。
 イエスは言われました。「人から出て来るものこそ、人を汚す。つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである。みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など、これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」(マルコによる福音書7:20〜23)
 このような人間の心は、もう救いようがないのでしょうか。清くなれないのでしょうか。

 家畜小屋が聖地に

 イエス・キリストが生まれた家畜小屋があった場所は、今は教会が建ち、聖地として、世界で最も清い場所の一つとして、世界中の人々の注目を集めています。
 神の御子、イエス・キリストがそこの生まれることによって、汚れた場所が、聖地となったのです。
 汚れた家畜小屋にお生まれになったキリストは、汚れたわたしたちの心にも喜んできてくださいます。そして、家畜小屋を聖地とされたように、わたしたちの心を清めてくださるのです。そのためにキリストは、あえて家畜小屋にお生まれになったのです。

 今、自分の心の汚れに悩んでいる人はいらっしゃらないでしょうか。このクリスマス、あなたの心にイエス・キリストがお生まれくださるなら、あなたの心はキリストによって清くしていただくことができます。
 「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救う(汚れから清める)からである。」(マタイによる福音書1:21)