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聖イエス会アンネのバラの教会



世界と人類のために  ―「アンネの日記」より

 アンネのバラの教会

 昨年、各地で催された「アンネの日記展」(朝日新聞社主催)や、聖イエス会の各教会で開かれた「アンネ・フランク写真展」を通して、少女アンネは多くの方々に身近な存在となりました。今年は、そのアンネ・フランク生誕50周年にあたっています。
このことを記念して、「アンネのバラの教会」を建てようとのビジョンに多くの人々が共鳴して下さり、すでに西宮郊外に、最適の土地も決まって、準備は着々と進められています。これは、「もし神様がわたしを長生きさせて下さるなら、わたしはつまらない人間で一生を終わりません。わたしは世界と人類のために働きます!」(「アンネの日記」1944.4.11 より)と書き残して世を去ったアンネの精神、平和への理念が、多くの青少年の心をとらえていることのあらわれであると思います。

 アンネの日記

 アンネ一家は、もと、ドイツに住んでいましたが、ヒトラーが政権を握った1930年代のはじめ、オランダに移住しました。ところが、第2次世界大戦が起こり、オランダがドイツ軍に占領されたときから、苦難の時が始まったのです。
「外の様子(ようす)は言葉では言い表せません。夜となく昼となく、かわいそうなユダヤ人が、リユックサック一つにわずかばかりのお金を持っただけで、引き立てられて行きます。途中で彼らは、こうした持ち物さえも奪われます。男、女、子供は別々にされ、家族は生木(なまき)を裂くように、別れ別れにされます。子供が学校から帰ると、両親の姿は見えません。女が買い物から帰ってみると、家はくぎづけにされ、家族はいません。」
「タ方暗くなってから、善良な罪のない一団の人々が、子供を連れて、ドイツの兵隊にこづきまわされ、倒れそうになるまでなぐられながら、ぞろぞろと歩いて行くのをわたしは窓からよく見ます。老人であろうと、赤ん坊であろうと、妊娠している女であろうと、また病人であろうと、情容赦はありません――みんな死の行進をさせられます。」(1943.1.13 1942.11.19)
ユダヤ人であるという、それだけの理由で、この人たちは家畜のように貨車につめこまれ、強制収容所に送られます。そこでは、はだかにされてガス室へ送られ、あるいは銃弾をあびせられ、ある人たちは、重労働にかり出されて、倒れて動けなくなると、生きたまま穴に埋められていく……。およそ人間の世界には考えられないような生き地獄が、そこに展開されていたのでした。
アンネ一家は、この迫害をのがれるため、アムステルダムのプリンセン堀に面する建物の、奥の3階、4階に隠れ住むことになりました。アンネ13歳の7月のことでした。
「太陽が輝き、空はまっ青です。外には気持ちのいい微風(そよかぜ)が吹いています。わたしはお話がしたい、自由がほしい、ああ、わたしはすべてにあこがれています。わたしは思う存分泣いてみたい。わたしは今にも泣き出しそうな気がします。泣けばさっばりするでしょう。しかしわたしには泣けません。」「一歩も外出できないということが、どんなに息苦しい気持ちか、あなたに説明することはできません。また、わたしは、見つかって殺されやしないかと、とても心配です。そんなことを考えるのは、気持ちのいいものではありません。」(1944.2.12 1942.7.11)
このような隠れ家での生活の中で、少女アンネの心は、何を考え、何を願っていたのでしようか。「戦争が何の役に立つのでしょうか。なぜ人間は仲よく、平和に暮らせないのでしょうか。この破壊は、いったい何のためなのでしょうか。毎日、戦争のために何百万というお金を使いながら、どうして医療施設や、貧しい人たちのために使うお金が一文(いちもん)もないのでしょうか。世界には食物がありあまって、腐らしているところがあるのに、どうして餓死しなければならない人がいるのでしょうか。」(1944.5.3)
「あらゆる不自由を忍んで、不平を言ってはいけません。自分のできるかぎりのことをして、あとは神様を信頼しなければなりません。わたしたちを現在のような境遇にしたのは神様であり、わたしたちを再ぴ引き上げて下さるのも神様でしょう。勇気をもちなさい。解決の時は来ます。神様は決して、わたしたちユダヤ人を見捨てたことはありません。」(1944.4.11)

 収容所ヘ

 2年が過ぎました。連合軍がようやく反撃に転じ、ノルマンディー半島に上陸作戦を開始した1944年6月6日、ラジオを聞きながら、一家はおどり上がって喜ぴました。父オットーさんは、毎日、地図にビンを押しながら、連合軍の進撃のもようを説明し、一同は解放の日を心待ちにしたのでした。しかし、ついに8月4日、ナチスの秘密警察は隠れ家に踏みこみ、8人の住人を連行したのでした。
アウシュビッツで父、母と別れ別れにされ、ベルゲンベルゼン収容所に送られ、そこで姉のマルゴットをもチフスで失った時、地獄のような収容所でもなお希望を捨てず、明るくけなげに生きぬいてきたアンネも、ついに最後の気力が尽き、静かに息をひきとったのでした。連合軍による解放を目前にした1945年2月、アンネ15歳の冬でした。


 アンネのバラ
 1972年クリスマス、「アンネの形見」と名付け、オットー・フランク氏が非常に愛し育てておられるバラの苗が10株送られてきました。1971年4月4日、イスラエル演奏旅行中のしののめ合唱団とアンネの父オットー・フランク氏との、ナタニヤにおける奇跡的出会いを記念し、友情のしるしにと氏より贈られたものであることは、すでに何度か、この紙面でご紹介した通りです。
1か月以上もかかって届いたその苗は、茶かっ色になり、枯れる寸前の状態でした。祈るような気持ちで、必死の努力を続けた結果、ようやくのことで10株の内ただ1株だけが根づき、翌年の春、はじめて美しい花を咲かせたのでした。今では各地に株分けされた「アンネのバラ」。ふちに紫がさした濃いクリーム色の花は、アンネの心のふるさとエルサレムのしののめの光さながらに輝き、強い香気が、平和への祈りのようにたちこめます。

 アンネの仕事

 1975年10月、しののめ合唱団は再ぴヨーロッパ、イスラエルに演奏旅行に出ました。アムステルダムでのコンサートの後には、アンネたちをかくまった人の1人であるミープさんと出会い、スイスのバーゼルでは、オットー・フランク氏をお尋ねしました。(その後ミープさんは昨年の「アンネの日記展」のために来日の際、京都を訪問され、嵯峨野教会で親しい交わりの時をもったことも、すでにこの紙面でお伝えいたしました。今年、合唱団は3度目の旅行を計画し、ミープさん、オットーさんとの再会を心待ちにしています。)
ミープさんは、「あなたは本当にすばらしいことをなさいました」と感動する合唱団員に対して、当惑した面持(おもも)ちで、「いいえ、私は人間としてあたりまえのことをしたにすぎません。あの場合、そうするのは当然ではありませんか」と、言葉少なに語られるのでした。
「時代がこうだから」「だれでもしていることだから」という理由で、人道が無視され、平気で正義が曲げられ、暴力が正当化されていた時代、信念を通すことが、自分の命さえ危険にさらすことを意味していたそのような状況の中で、毎日、隠れ家のアンネたちに食糧を運び、励ましつづけたミープさん。それを、飾り気なく「当然のこと」と言うこの婦人こそ、真に勇気ある人ではないでしょうか。
今年、もう90歳にもなろうというオットー・フランク氏は、こう言われるのが常です。
「いつかわたしには、目覚めない朝が来ます。きょうは、恵みによって目覚めることができました。さあ、アンネの仕事をしよう。アンネは、『もし神様がわたしを長生きさせて下さるなら、わたしは世界と人類のために働きたい』と言い続けて死にました。だからわたしは、アンネの仕事をしなければならない」と。
強制収客所からただ一人生き残られたフランク氏の口からは、ただの一度も、自分を苦しめた人をののしる言葉を聞いたことはありません。大きな苦難を通り、平和と人類愛の偉大な理想に生きる人の心は、大きくひろいのです。

 世界と人類のために

 ふつうの人なら、正気でいることさえむずかしいような、死ととなり合わせの隠れ家生活を、「世界と人類のめに」という気高(けだか)い理想に燃えて生きたアンネの一日。ユダヤ人たちをかくまっていることが発覚すれば、自分もいっしょに死の収容所行きという危険の中で、体を張って正義と愛に生きたミープさんの一日。そして、「乎和のために、私にできることがあるなら、どんな小さなことでも、全力を尽くしたい」と、きようこの一日を、年老いた体にむち打つようにして働き続けられるフランク氏。それにくらべて、私たちの一日一日は、真に意義ある日々でしようか。もし私たちが、「時代がこうだから」「みんながしているから」という理由で、信仰もなく、理想をもつでもなく漫然と日を送っているとするなら、私たちも又、あの恐ろしい時代にナチスと多くの人々が犯した同じ罪を再ぴ犯してしまわないと、だれが言えるでしょうか。
もし私たちが、自分を守るために、一つの偽りを容認してしまうとするなら、その時、私たちを通して救われなければならない人を、平気で悪魔に密告しその手にひき渡してしまうことにはならないでしょうか。
アンネの平和への理想が、今、中学生をはじめとして若い人達の心に燃えひろがり、「世界と人類のために」が合言葉にさえなっていることは、すばらしいことだと思います。ちょうど中学生の年頃だったアンネが、「世界と人類のために」という理想に生きたことによって、確かに世界に力強い運動がまきおこっていったとするなら、小さな私たちではあっても、心を一つにして日々この理想に生きるなら、世界を変えることができるでしょう。
平和と愛そのものであられる神様が、この理想に燃える一人一人の心に住んで、生き働いて下さいますように。まことの愛であられるキリストとの一致の中から、真実な一日が、生み出されますように。 神は愛なり。
(アンネの日記引用は皆藤幸蔵訳、文藝春秋刊より。なお、本文の一部を本紙246号より再掲)



 格別尊い「神からのビジョン」 オットー・フランク氏書簡

 親愛なる大槻(武二)師
 昨年12月22日付の、あなたからのすばらしいお手紙に、私は非常に大きな喜びと感動をもってお返事いたします。
私は、あなたと日本クリスチャン平和の友の会のすべてのメンバーが、アンネとアンネの日記、又その日記の精神に対して抱いておられる大きな愛を知っておりましたが、アンネの生誕50周年を記念して、あなたが新しく「アンネのバラの教会」をお建てになるということをお聞きして、非常に驚き、又喜びにみたされました。しかも、このプランが、神からのピジョンとしてあなたに与えられたことが、その計画を格別尊いものとしています。神は又あなたに、その教会を建設すべき場所までもお示しになり、あなたのグループのメンバーの献げものによって、風光明媚な土地を手に入れることがおできになりました。
この教会と、教会にあるすべてのものが、あなたの運動によって青少年層にアンネの精神を理解させ、平和のために献身させるための、永続的な霊感を与えることと確信しています。
あなたのたくみな描写によって、私はもうすでに、美しい庭と、アンネのバラに囲まれたアンネの記念碑を見ている気がします。
もちろん私は、あなたのすばらしいご計画を、心から喜んでお助けいたしましょう。アンネの日記からの抜粋を私の手書きで、というあなたのご注文でしたが、私はすぐにでもそれをお送りいたしましょう。
又、新しい教会のために喜んでメノラをお贈りしいたします。道子さんか今秋合唱団とバーゼルに来られたときに、直接手渡すようにいたしましょう。
献堂式までには、お祝いのメッセージをお送りいたします。
………
新年にあたり、あなたとご家族の上に、ご健康と祝福をお祈りいたします。あなたが行っておられる永遠のための不屈のお働きが主に祝されますように。心からのごあいさつをこめて シャロ一ム
オットー・フランク

ぶどう樹276号 (1979.2)

聖イエス会の教会にあるアンネ・フランク像の紹介
アンネのバラの教会の像(兵庫) しののめ教会の像(大阪 いずみ教会の像(群馬)
他に、嵯峨野教会(京都) ソフィア教会(東京)、他


ホロコースト記念館


 ホロコースト記念館は、1995年―戦後50年の節目の年(アウシュビッツ収容所解放50年、またアンネの日記で知られるアンネ・フランク没後50年の年)に開館しました。
第2次世界大戦中のヨーロッパで、ただユダヤ人であるという理由で600万の生命が奪われました。彼らはいわれのない差別と迫害を受け、ガス室などで無残に虐殺されていきました。その中には150万もの子供たちが含まれていたのです。
この記念館は、この「ホロコースト」(ナチスによる大虐殺)を知っていただくために日本で最初につくられた子供たちの学びの場です。
この記念館を訪れる青少年が、当時の子どもたちの残した写真や作品などを通して、歴史の現実を学ぶことができますように。そしてこの所での学びが「差別と偏見」のない平和な時代を築いていく助けとなれば幸いです。

 現在、新館の建設中です。


9/30(日) 新ホロコースト記念館 開館記念の集い
10/2(火) OPEN